見上愛さんは、大河ドラマ「光る君へ」第26話-(2024年6月30日- 、NHK)藤原彰子役で出演しています。
気になるのが見上愛さんの学歴ですが、今回は、見上愛さんの大学を中心として学歴について解説します!
目次
見上愛の学歴~出身小学校の詳細
出身小学校:不明
見上愛さんの出身小学校は、都内の学校のようですが校名などの詳細は不明です。
ただし出身の桐朋学園には桐朋学園小学校が設置されているので、そちらの出身者の可能性もありそうです。
家族構成は両親と兄の4人家族です。
実家は裕福との情報もありますが、少なくとも中学時代から「お嬢様学校」に通学しているので可能性も高そうです。
見上さんは6歳年上の兄の影響をかなり受けており、インタビューでは次のように話しています。
「兄は、自分が何をしたいのかをしっかり見つけてから自分のやりたいことに挑んでいくような人で、私も強く影響を受けています。そのため、幼少期から『自分は何がしたいんだろう』ということを、よく考えていました。」と語り、3歳の頃からバレエを習いはじめています。
また見上さんの小学校時代の将来の夢は日本の首相になることでした。
見上愛の学歴~出身中学校(桐朋女子中学校)の詳細
出身中学校:東京都 桐朋女子中学校 偏差値48(やや容易)
見上愛さんの出身中学校は、私立の女子校の桐朋女子中学校です。
この中学校は出身高校に併設している系列校ですが、高校での募集が20名程度なので中学受験で入学すればかなりハードルが下がります。
中学二年生の時、観劇好きなご両親に連れられて舞台を観に行ったことをきっかけに、演劇に興味を持った見上愛さん。
見上愛の兄について
”自分が何をしたいのかをしっかり見つけてから自分のやりたいことに挑んでいくような人で、私も強く影響を受けています”と語っています。
中学校時代のエピソード
見上さんは中学時代から演劇に興味を持ちはじめましたが、当初は裏方の照明の仕事に興味を抱いていました。
また見上さんは中学生の頃にはハンドボール部で活動をする傍ら、バンド活動もはじめています。
3歳から18歳までバレエを習っていた他、習字や作文を習っていたそうです。
中学・高校時代はバンド活動も行っていて、ギターとボーカルを担当していたといいます。
運動から中学受験、音楽まで様々なことに挑戦している見上愛さんは多才な方なんですね。
見上愛さんは、中学1年から3年間ハンドボール部に所属していました。
2021年に出演したNHKの連続ドラマ「きれいのくに」の劇中に、隣に住んでいる男子と2階の窓越しに会話する場面。
男子がミカンを投げて寄越すと、うまくキャッチして「いらない。食べなよ」と笑顔で投げ返す。というシーンがあります。
このシーンについて見上愛さんは、「ミカンが飛んでくることは知らなかったんです。
脚本には全く書かれていなくて、あの場で監督さんが『投げちゃえ』って耳打ちしたようです。
凄く寒い日で、キンキンに冷えたミカンが飛んできたので、反射的に投げ返しました」
思わぬところで、ハンドボール部だった経験が生かされたようです。
見上愛の学歴~出身高校(桐朋女子高校)の詳細・お嬢様学校に通学していた!
出身高校:東京都 桐朋女子高校 普通科 偏差値67(難関)
桐朋女子高等学校は、中高一貫校の私立女子校で、普通科と音楽科があります。
ただ、音楽科は桐朋学園大学音楽学部との高大一貫7年制で、名称に女子とついているものの男女共学だそうです。
「お嬢様学校」と知られてますが、割と自由でアットホームな校風のようですよ。
- 卒業生の著名人は?
- 高嶋ちさ子(バイオリニスト)
- 蜷川実花(写真家・映画監督)
- はいだしょうこ(歌手・タレント)
見上愛さんの出身高校は、私立の女子校の桐朋女子高校です。
この高校は1941年開校の私立高校で、地元では古くから「お嬢様学校」として知られています。
出身が桐朋女子高校である理由
「高校生劇評グランプリ」に出場して優秀賞を受賞しておりました。
またインターネット上に在籍情報が複数見られます。
そのため見上さんはこの高校の出身者で間違いないはずです。
また同校は普通科(偏差値67)のほか音楽科(偏差値56)も設置していますが、見上さんは普通科に在籍しています。
見上さんは幼少期から習っているバレエは18歳まで続けていました。
高校時代は演劇部で活動
また高校1年生の途中まではハンドボール部に在籍をしていましたが、演劇部に転部をしています。
このことについてはインタビューで次のように話していました。
「中学2年の頃に観劇好きの両親に連れられて、舞台を観に行き、それをきっかけに少しずつ観劇に興味を持つようになったんです。その後、中学1年から高校1年の途中まで3年間ハンドボールをやっていたのですが、途中で『なんで自分がハンドボールをやっているのか』がわからなくなってしまって。今、本当に自分のやりたいことをしないと後悔するんじゃないかと感じ、転部して演劇部に入りました。」
もともとハンドボール部に入部しましたが、次第になぜ自分はハンドボールをやっているのかわからなくなり、”本当にやりたいことをしないと後悔するんじゃないか”と感じて、高校1年生の時に転部を決めたそうです。
本当は照明がしたかった見上愛さんでしたが、演劇部での担当の空きが、演出と脚本しかなかった為、その二つを担当しました。
音響関係の仕事をする兄に影響を受けた
見上愛さんには6歳上の兄がいて、進路に大きく影響したようです。
ある舞台で、夢と現実、過去と現在の行き来が照明だけで表現されているのを見たんです。父と兄が音響関係の仕事をしていて、私が照明を仕事にすれば兄と一緒に仕事ができるかもしれないという小さな願いがありました。
見上さんが在籍していた演劇部では役者や演出などそれぞれの役割を振り分けられていましたが、部員が少なかったことから見上さんが演出と脚本をおこなうことになっていました。
そして高校2年生の時には「高校生劇評グランプリ」という大会で賞を受賞しています。
見上さんにとって演劇は楽しかったそうで次のように話していました。
「演劇は自分が得意な分野を頑張れるし、お芝居の先に届ける相手がいることが、すごく楽しかったです。」
ワタナベエンターテインメントスクールにも通っていた
見上さんは演出家になるためには演技も学んだほうが良いという考えから、ワタナベエンターテインメントスクールに入校をしています。
このことについてはインタビュー絵次のように話しています。
「『演出家になる為には、やっぱり演技も学んでおいた方がいい』『演技する人の視点を知っておいた方がいい』という演劇関係の先輩たちの意見を聞いて、演技を学ぶことを決めました。ただ、高校が芸能活動や劇団に所属したりすることを禁止していたので、習い事として演技を学べるところを探し、ワタナベエンターテイメントスクールで演技を学びました。」
なおこの高校は芸能活動を厳禁しているので、高校時代は芸能活動をおこなっていません。
- 【主な卒業生】
- 蜷川実花(写真家・映画監督)
- 堂真理子(アナウンサー)
- 高野志穂(女優)
- 浅茅陽子(女優)
- 高嶋ちさ子(ヴァイオリニスト・音楽科)
出身大学:日本大学 芸術学部演劇学科演出コース 偏差値50(普通)
見上愛さんは高校卒業後は、私立大の日本大学に進学をしています。
在籍するのは「日芸」の略称で知られる芸術学部です。
出身が日本大学である理由
インターネット上に在籍情報が多数見られます。
またメディアが女優の河合優実さんと大学は同じ学部の同期であることを報じており、河合さんはこの大学の出身者であることが判明しています。
さらに一部メディアは2人とも芸術系の学部に在籍していたことを報じており、見上さんは日本大学の出身者で間違いないはずです。
見上さんは高校時代は演劇部で活動をしていたことから、将来は演劇の仕事に就きたいと思い演出の勉強をするためにこの大学に進学をしています。
大学一年生で芸能界入り
大学一年生で芸能界入りした見上愛さんですが、実は女優ではなく、演出家になりたかったのだそうです。
「大学に入る時はまさか自分が女優業をするなんて思っていなくて、演出家を目指すもんだとばかり思っていたし、まさか3年間ほぼオンライン授業を受けるなんて思ってもいなかった。人生何があるか分からないな。」と語り、コロナ禍の中過ごした学生時代でしたが、女優業と学生を両立させ、見事4年で卒業されています。
女優となった今も、いつか「演出」にチャレンジしてみたいと思っているようです。
ちなみに日本大学芸術学部に入ると決めたのは、中学三年生の時だそうです。
- 日本大学芸術学部卒業生
- 大塚寧々(女優)
- 本郷奏多(俳優)
- 金子ありさ(脚本家)
- 青山剛昌(漫画家)
- 木原実(気象予報士)
- 三谷幸喜(脚本家)
- 石田彰(声優)
大学では河合優実と同期だった
見上愛さんの親友である女優の河合優実さん。
お二人は大学が一緒で知り合ったそうです。
あまりにも可愛い子がいる!と思った見上愛さんは、「すいません、めっちゃかわいいです。友達になってくれませんか?」とナンパするみたいに、思わず声をかけてしまったそうですよ。
大学の同学部同学科の同期には女優の河合優実さんがいました(ただし河合さんは演技コース)。
河合さんとは見上さんから声をかけて、大学時代に友達になって一緒に食事などをしていました。
見上さんは大学に入学後は実際に自分で演出をしたり、演出の勉強をしています。
大学時代に女優デビュー
また大学進学後に女優デビューを飾っています。
大学1年生だった2020年1月に、「乃木坂シネマズ?STORY of 46?」で連続ドラマに初出演をしています。
後述するように見上さんは高校時代にワタナベエンターテインメントスクールで演技を学んでおり、そこで現在のマネージャーから声をかけられたことがきっかけとなり女優としてデビューをしています。
同じ年の12月には映画「衝動」で初の主演に抜擢されています。
見上さんはこの映画の役作りについて、インタビューで次のように話しています。
「できるだけ役に近い経験や知識がある人に話を聞くようにしています。『衝動』という映画では失語症の役を演じたのですが、当事者の方に直接お話を伺うことはできなかったので、大学の心理学の教授にお話を伺ってから撮影に入りました」加えて2022年には、女優の長澤まさみさんとともにJRAのCMに起用されています。
このところのJRAのCMには人気女優や俳優が起用されることが多いので、見上さんへの期待の高さが窺えますね。
なおこのように大学時代は仕事で大忙しでしたが、2023年3月に大学は卒業しています。
留年などせずにストレートで卒業したのは立派ですね。
以上が見上愛さんの学歴と学生時代のエピソードのまとめです。
大学進学後に女優としてデビューを飾っていますが、このところは連続ドラマのレギュラーに起用されて徐々に知名度を上げています。
今後はさらに演技力を磨けば、女優としてブレイクするポテンシャルも秘めています。
見上愛の実家はどのなのか?
高円寺 若者の街として知られ古着屋や低価格の居酒屋やライブハウスなどが軒を連ねています。意外にも自然も豊かで公園や神社仏閣も多く、落ち着いた雰囲気の住宅街もあります。
SNSの投稿にも杉並付近に慣れ親しんだコメントがよく見受けられます。
夜、友達と3人で高円寺から中野まで歩いた。お散歩しながら写真を撮ったり撮ってもらったりした。
見上愛の家族構成
見上愛さんの家族構成は両親・兄・妹の5人家族です。父親と6歳年上の兄がいることは確認できます。また父子共に音響関係の職業に就いていることもわかります。
「中2の時、観劇が好きになって、照明に興味を持ちました。ある舞台で、夢と現実、過去と現在の行き来が照明だけで表現されているのを見たんです。父と兄が音響関係の仕事をしていて、私が照明を仕事にすれば兄と一緒に仕事ができるかもしれないという小さな願いがありました」
私には6つ上に兄がいます。兄は、自分が何をしたいのかをしっかり見つけてから自分のやりたいことに挑んでいくような人で、私も強く影響を受けています。そのため、幼少期から「自分は何がしたいんだろう」ということを、よく考えていました。
妹や母親の情報は少ないですが見上愛さん自身のSNSには過去に下記のよう投稿がありました。両親と兄、妹の5人家族であることに間違いはありません。
今日は母の日でしたね。日頃の感謝を込めて、兄妹でご飯を作ってお花とマグカップをあげました????このあいだ何日か主婦業をしていたのですが、全然上手く出来なくて、本当に主婦ってすごい、、、お母さん天才、、、ってなりました。
お仕事には触れていないので現時点では、母親は主婦業に専念されているのかもしれません。
見上愛JRAの仕事は自身が傾倒している寺山修司の影響があった?
見上愛さんは、寺山修司氏およびその作品に傾倒しています。
役作りにおいてはその役に近い経験や知識がある人物に話を訊き、撮影に臨んでいるそうです。
寺山 修司氏(てらやま しゅうじ、1935年〈昭和10年〉12月10日 – 1983年〈昭和58年〉5月4日)は、日本の歌人・劇作家、演劇
実験室を標榜した前衛演劇グループ「天井桟敷」主宰。
「言葉の錬金術師」「アングラ演劇・四天王のひとり」「昭和の啄木」などの異名をとり、上記の他にもマルチに活動、膨大な量の文芸作品を発表した。
見上愛さんがJRAのプレゼンターを務めている競馬への造詣も深く、競走馬の馬主になるほどでありました。
寺山氏の競馬との出会いは1956年、ネフローゼで入院中、同室の韓国人から賭博とともにそれを学んでいましだ。
1962年、山野浩一氏と親しくなったころから足繁く競馬場に通うようになり、1963年、牝馬・ミオソチスに心酔して競馬エッセイを書き始め、競馬を人生やドラマになぞらえて語るなどの独特の語り口で人気を博していました。
1964年には、中山大障害を題材にしたTBSテレビのドキュメンタリー番組『サラブレッド・我が愛』の台本・構成を手掛けています。
1965年、八百長疑惑が持ち上がったたちばな賞のパトロールフィルムを大川慶次郎氏、虫明亜呂無氏とともに見た寺山氏は「どこが八百長なのか分からない」と発言し、八百長疑惑を否定しました。
1968年、船橋競馬のある騎手から「寺山さんのエッセイは中央競馬寄り」という批判を受けたことをきっかけに、船橋競馬のある騎
手と新宿で会談、自身の不明を恥じた寺山は「ユリシーズ」(南関東)の馬主となり、生涯ただ一頭だけの馬主体験でありました。
1970年からは報知新聞競馬面に「寿司屋の政」、「バーテンの万田」など多彩な人物を登場させて競馬を予想した『みどころ』『風
の吹くまゝ』というコラムを連載し、これは1983年4月、死の直前まで続き、このコラムは後に『競馬場で逢おう』シリーズとして
纏められている(Part6まで、JICC出版局)。
競馬界のスポークスマン的存在で、1973年には日本中央競馬会(JRA)のコマーシャルに出演。『カモメは飛びながら歌を覚え、人生
は遊びながら年老いていく』という自作の詩(ディレクターを務めた武市好古によると、「遊びについての断章」という名の長い詩
だったのを、CM収録時に編集したという)を朗読、1974年にハイセイコーが引退すると、引退記念レコード『さらばハイセイコー』
の構成、詩の朗読を行なりました。
1978年の日本経済新春杯でテンポイントが骨折し、2か月後に死亡すると、追悼詩『さらば、テンポイント』を残した。この詩は寺山氏
自身が番組構成に携わった関西テレビのテンポイント追悼特集番組『風花に散った流星』で紹介され、1991年にVHSビデオ『もし朝が
来たら テンポイント物語』としてソニー・ミュージックエンタテインメントから発売されました。
1978年6月には、NHKが製作した『ルポルタージュにっぽん』「ダービーの日」という番組に進行役として出演、同年5月28日に開催さ
れた日本ダービーでの「東京競馬場の長い一日」を、レースに騎乗する福永洋一騎手・岡部幸雄騎手・柴田政人騎手の同期3名の騎手を中心に、調教師、観客らの姿にスポットを当てて描くというドキュメンタリーの形で綴っていました。
1981年のカブトシロー薬殺未遂騒動の際には、寺山氏を中心とした10人の競馬ファンの連名で中央競馬会に抗議文を提出、1982年に寺山氏が選んだ「私の忘れがたかった馬ベスト10」(競馬放浪記あとがき)はミオソチス、カブトシロー、モンタサン、ホワイトフォンテン、テンポイント、ハイセイコー、メジロボサツ、ユリシーズ、タカツバキ、テキサスシチー、(番外・ダンサーズイメージ)、騎手では中島啓之、のちに吉永正人を贔屓にしました。
まだ人気にも話題にもなっていない頃から彼らを熱心に取り上げ、「ダービーに勝つまで書き続ける」としていた。中島、吉永共にダービー制覇を成し遂げているが、吉永がミスターシービーで悲願を達成したのは、寺山氏が急逝した3週間後でした。
報知新聞競馬面予想コラム『風の吹くまゝ』の最終回は1983年皐月賞の当日で、寺山氏は『勝つのはミスターシービー』と記し、吉永
とミスターシービーの勝利を確信していました。
見上愛が好きなタイプは圧倒的に強い馬?
俳優の佐々木蔵之介さん、見上愛さん、騎手の武豊さんが都内で行われた『第91回日本ダービー』PR発表会に参加しました。
ダービーの思い出を語ることになり、佐々木さんは「震災復興への思いが込められたキズナの2013年ですね。みんなに勇気や希望を与
えてくれたダービーが心に残っています」としみじみ、キズナが勝った第80回ダービーで鞍上だった武さんは「乗ってました」と武にし
かできない返答をして笑わせていました。
見上愛さんはは一昨年、昨年のダービーを現地で観戦、同じ質問に見上さんは「(一昨年の)ドウデュースの優勝が。現場の一体感が」と語り、ドウデュースの騎乗していた武豊さんは「乗ってました」と一言。再び会場は爆笑でした。
そんな武さんはダービーへの思いを語る。「僕自身もダービーが近づいてくるとワクワクします。子どものころからやっぱり1番好きな
レース。こうやって今乗れるのはうれしいです」と笑顔を見せていました。
そして、キズナが武豊さんを背に優勝した映像を見ながら振り返ることに、武さんは「思い出しますね。この光景を。だんだんゴールに近づいて1頭1頭を追い抜いていく。最高ですね。なんとなく途中で『勝てるな』という感覚がありました。すごくいい馬だったので信
用してました」としみじみと口にしていました。
JRA年間プロモーションキャラクターを務める俳優の見上愛さんは、小倉競馬場で行われたG3・プロキオンステークス(ダ1700m)の表彰式プレゼンターを務めていました。
G3・プロキオンステークスで勝利した武豊さんと再び共演、見上愛さんは「プロキオンステークスでプレゼンターを務めさせていただきました。小倉競馬場に来るのは3回目ですが、ダートの重賞レースを見るのは初めてで、とても迫力がありました。プロキオンステークスを制したヤマニンウルス号、武豊騎手、ご関係者の皆さま、おめでとうございます。トークショーでは、レース映像を振り返りながらお客様とレースの感動を改めて分かち合うことができ、素敵なひとときを過ごすことができました。この先の夏競馬でも、新たなHEROが誕生する瞬間を見られることを楽しみにしています」と語っていました。
世界で唯一「お金持ちになれない」思想を持つ日本人
世界中を行き来する生活をしている三凛氏は、日本人が持つ「お金持ちに対する意識」が他の国とは違うと指摘する。
「アメリカやヨーロッパでは、セレブは嫉妬の対象でもありますが、日ごろから経済を回し、多額の寄付をしている一面も知ってい
るため、憧れの対象でもあります。
一方、日本の場合は経済的に成功している人に対しては『怪しい商売をしているのでは?』『人を騙してお金儲けをしているのかも
』といった見方をされることが多いですよね。
日本人がお金持ちになりにくいのは、お金を稼ぐことや経済的に成功している人に対して悪いイメージを持っているためです。この
先入観が、知らず知らずのうちにお金持ちになろうとする自らの行動を制御してしまいます。これが『お金のメンタルブロック』の
正体です」
起業塾でわかった「成果を出せない理由」…メンタルブロックの外し方
三凛氏がお金のメンタルブロックの存在に気づいたのは、自身のキャリアアップが上手くいかなかった苦い経験にある。
「心理学では『認知的不協和』と呼ばれる状態があります。これは顕在化している自身の欲求に対して、気持ちと行動が一致してい
ない状態を指します。
つまり、お金をたくさん稼ぎたいと思っているのに、それに行動が伴わないと、人はストレスを感じるのです。僕は、これをお金・
仕事の面で経験しました。
10年前に、ある起業塾へ入ったのですが、僕よりも若くて社会経験が少ない人たちが軽々と行動して成果を上げているのに、僕は全
く成果が上がらなかったんです。それを目の当たりにして、成果を出せるかどうかは、行動を起こす覚悟や前向きさ、人間性や器の
大きさといったメンタル面が関係していると気づいたんです」
「私個人がメンタルブロックを外すために行ったのは、本書にあるようなワークとマインドセットです。具体的には、富裕層と呼ば
れる方々に直接会いにいきました。
というのも、その人の持つ考えや常識といったものは、置かれた環境や人間関係によって形成されます。
仮に、稼ぐことに苦手意識を持っていて、『月30万稼ぐのもやっと』という人がまわりに多いと、自然と自分も同じ世界線で生きて
いると認識し、同じぐらいの額のお給料の中で節約しながら生きようとするのです。
この考えや常識を取っぱらうために、その時に憧れていた富裕層の方が出演するイベントに参加したり、コンサルを受けたりしまし
た」
多忙なサラリーマンにとって、環境を変えることは難しそうに思えるが、実は異業種交流会などに行くだけでも十分だという。
「参加者の中には、普段は接することのない職種の人もいれば、経営者もいます。そういった人たちと付き合うことで、考え方や常
識に変化がうまれる可能性がありますし、視座が高くなったり、自身のキャパシティーが広がったりすることも期待できます」
スポーツ界でも同じことが言われている。本来の自分の実力よりもレベルの高い環境に身を置くことで、後付けで自身のレベルが上
がるのだそう。
「心理学でも、まわりの人たちと同じような行動をするようになるというエビデンスがありますし、現状よりもレベルの高い環境に
身を置くことは、ビジネスにおいても人生においても有効的なのだと思います」
メンタルブロックを外して気づいた「お金を稼ぐことの意義」
お金のメンタルブロックを外したことで、お金や稼ぐことへのイメージが変わり、事業も順調に拡大しはじめた三凛氏。
「それまでは、『お金は生きるために必要なもの』ぐらいの認識でしたが、お金は稼げば稼ぐほど、徳を積んでいるのと同じことだ
と考えられるようになり、『お金は大人の通信簿』という捉え方に変わりました。お金を稼ぐことは、世の中にいいことをして『ありがとう』と言われることです。しかも、お金を稼ぎ続けることで、雇用を生みます。雇用を生むということは、自分以外の人たちの生活を支えるということです。そう考えると、お金を稼ぐことはすごく尊いことだと思えてきませんか?」
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