俳優・石橋正次の次男で俳優の石橋正高との再婚が報じられた歌手の小柳ルミ子。
連日、取材マスコミが格好のネタとして取り上げたものの、結局、ルミ子がファクスでコメントし否定。
お相手の石橋は無言で報道陣の前から逃走してしまい、今回の再婚報道はどうやら石橋の“独り相撲”だったようだ。
一部スポーツ紙によると、2人は昨年4月から交際し、石橋はすでに小柳に指輪をプレゼント。
昨年亡くなった小柳の母親の喪が明ける今年12月末にも再婚する、というものだった。
ところが、小柳はマスコミ各社にファクスでコメントし「私の再婚に関する記事は事実ではございません」と完全否定。小柳のコメントを受け、報道陣が石橋の公演先に集まったが石橋は無言で逃走した。
「今回の再婚情報は全て石橋サイドからのリーク。某リポーターなんかは、ワイドショーで『石橋と食事したらこう言ってた』なんて得意げに話してましたが、小柳が再婚を否定したからには、石橋が自分で言いふらしているのはバレバレです」(ワイドショー関係者)
報道陣の直撃を受けた石橋の母親は「全く聞いてない」、石橋の父・正次も言葉を濁し、何も明言しなかった。
目次
小柳ルミ子の元旦那は大澄賢也
小柳ルミ子さんは、13歳年下でダンサーの大澄賢也さんと結婚し、話題となりました!
ではお二人について深掘りしましょう!
小柳ルミ子と元旦那・大澄賢也の出会いはディナーショー
小柳ルミ子さんと大澄賢也さんは、1989年に結婚しています。
1988年、小柳ルミ子さんのディナーショーをきっかけに、大澄賢也さんと出会います。
大澄賢也さんにとって、小柳ルミ子さんは憧れの存在だったそう。
出会いからわずか1ヶ月で結婚するスピード婚だったそうです!
小柳ルミ子と大澄賢也の結婚披露宴は総額は3億円以上!
小柳ルミ子さんと大澄賢也さんの結婚披露宴は、総額は3億円以上と言われています。
当時芸能人の結婚式は、テレビ放送されることも多くあり、お二人の様子も放送されていました。
2人のラブラブな様子はお茶の間を沸かし、特に揃ってダンスをする姿は印象に残っている方も多いのではないでしょうか。
結婚12年目に浮気を理由に離婚
メディアなどにおしどり夫婦として出演することも多くありましたが、結婚12年目に離婚を発表しました。
その理由は、大澄賢也さんの浮気だそうです。
離婚の際の条件は、「慰謝料として1億円を支払うか、以前のような無名のバックダンサーに戻るか」の選択を迫られたそうです。
大澄賢也さんは慰謝料1億円を支払ったと言われています。
また小柳ルミ子さんと大澄賢也さんの間には、お子さんはいらっしゃいません。
小柳ルミ子、俳優・石橋正高と婚約発表
2007年7月22日に27歳年下の俳優・石橋正高さんと婚約を発表します。
しかし、入籍直前に婚約を解消したそうです。
では、石橋正高さんとはどのようなひとなんでしょうか。
名前 石橋正高(いしばし まさたか)
生年月日 1979年4月6日(44歳)
出身地 神奈川県横浜市
ジャンル 俳優・タレント
活動開始時期 1998年
父親は歌手や俳優として活動している、石橋 正次さんだそうです。
小柳ルミ子と平尾昌晃の関係。瀬戸の花嫁の誕生秘話。
平尾昌晃さんは数々の名曲で知られる作曲家ですが、小柳ルミ子さんの『瀬戸の花嫁』は最も有名なものの1つです。
その平尾昌晃さんと小柳ルミ子さんの関係、そして瀬戸の花嫁の誕生秘話について調べてみました。
小柳ルミ子さんと平尾昌晃さん
小柳ルミ子さんは、中学卒業後、宝塚音楽学校に入学しました。
もともと歌手志望だったため、渡辺プロダクションにその旨を願い出たところ、「宝塚を首席で卒業したら歌手にしてあげる」と回答が。
そして、見事、1970年に宝塚音楽学校を首席で卒業。
すぐに歌手になりたかったものの、事務所から初舞台だけは踏むようにと言われ、「夏川るみ」名義で宝塚歌劇団に入団し、わずか2ヶ月で退団します。
退団した1970年に、歌手デビュー前に顔を売る目的でNHK連続テレビ小説『虹』で女優としてデビューします。
そして、1971年4月にワーナー・ブラザース・パイオニアと邦楽部門初の歌手として契約し、満を持していよいよ歌手デビューとなる時がやってきました。
そのデビュー曲『わたしの城下町』を手掛けたのが、平尾昌晃さんでした。
同曲は160万枚の大ヒットを飛ばし、1971年のオリコン年間シングル売上チャートで第1位を獲得し、日本レコード大賞最優秀新人賞をはじめ、数々の音楽賞を獲得。
また、同曲により、同年の紅白歌合戦にも初出場を果たします。
翌1972年の4枚目のシングルとなる『瀬戸の花嫁』が週間オリコンチャート首位を獲得。年間チャートでも第2位となり、小柳ルミ子さんにとっては『わたしの城下町』に次ぐヒット作となりました。
同曲は第3回日本歌謡大賞を受賞。他に『お祭りの夜』『京のにわか雨』『漁火恋唄』も大ヒットとなり、当時の小柳ルミ子さんは天地真理さん、南沙織さんとともに「三人娘」と呼ばれ、70年代前半を代表するアイドルとなりました。
その後、小柳ルミ子さんはアイドル歌手を卒業し、正統派歌手として数々のヒット曲を世に送り出しますが、その歌手としてのキャリアの初期に、その楽曲のほとんどを手がけたのが平尾昌晃さんでした。
デビュー曲『わたしの城下町』のレコーディングのとき、平尾昌晃さんは1テイクでOKを出したそうですが、小柳ルミ子さんは納得が行かなかったといいます。
そこでもっと歌わせて下さいとお願いしたところ、
「歌は上手く歌う事が素晴らしいんじゃないの。心に響く歌が素晴らしいんだよ」
と返されたのだそうです。小柳ルミ子さんは、今もその教えを胸に、人々の心に響く歌を、心を込めて歌い続けていきたいと考えているとのことです。
平尾昌晃さん作曲の小柳ルミ子さんの楽曲
71.04.25 わたしの城下町
71.09.25 お祭りの夜
72.01.25 雪あかりの町
72.04.10 瀬戸の花嫁
72.08.10 京のにわか雨
72.11.10 漁火恋唄
73.05.25 恋にゆれて
73.11.10 恋の雪別れ
74.03.10 花のようにひそやかに
74.06.10 ひとり囃子-”祇園祭”より-
78.04.25 夢追い列車
82.05.21 みだれ髪
98.09.19 だから京都
2011.03.02 やさしくして
2012.03.07 アカシヤの大連
2012.12.05 青林檎
瀬戸の花嫁の誕生秘話
『瀬戸の花嫁』は平尾昌晃さんが数多く手掛けた小柳ルミ子さんの楽曲の中でも、最も愛され続けているものの1つとして知られています。
当時の小柳ルミ子さんは20歳で、デビュー曲の『わたしの城下町』の大ヒット以来、人気アイドル歌手として順風満帆な滑り出しを見せていました。
そんな小柳ルミ子さんが、あるとき、思わず、
「私、お嫁になんか行きません。ずっと歌を歌い続けます」
と口にしたことがあったそうです。
すると、平尾昌晃さんと作詞の山上路夫さんが、「それ面白いね」「だったら歌の中でお嫁に出しちゃおう」と即座に反応、その場で新曲の制作が進められることになったのだとか。
平尾昌晃さんが「瀬戸内海っていいな。情景が目に浮かぶんだよね」とアイデアを出したところ、山上路夫さんも同意。瀬戸内海をテーマで曲と詞を別々に作って持ち寄ることに決定し、2人はその場で一旦別れます。
2週間後、山上路夫さんは「瀬戸の夕焼け」「峠の花嫁」という2つの詞を持ち込んできますが、平尾昌晃さんは「情景が浮かばない」と今ひとつの反応を示します。
そこでマネージャーが、「2つを一緒にして『瀬戸の花嫁』はどうですか」と提案。
平尾昌晃さんも山上路夫さんもその案を気に入り、正式タイトル『瀬戸の花嫁』が即座に決定。
さらに10日後にそれぞれ曲と詞を持ち寄ったところ、お互いの持つ瀬戸内海のイメージがピッタリとはまり、ほとんど手直しせずに完成させることができたそうです。
ちなみに、作詞の山上路夫さんは、瀬戸内海の島を訪れたことはないものの、仕事で四国に向かう途中に船で何度も通ったことがあり、そこから見た段々畑と美しい夕日の島々の情景を思い出し、詞が浮かんだのだそうです。
また、瀬戸内海には大小3000もの島々があると言われており、曲の舞台となる島については諸説あるようですが、実際には特定の島がモデルとなっているわけではないようです。
『瀬戸の花嫁』のような名曲が、小柳ルミ子さんの思わず口走った言葉や、マネージャーのその場での提案など、さまざまな偶然が積み重なって生まれたものだったというのは、とても興味深いですよね。
以上、小柳ルミ子さんと平尾昌晃さん、そして瀬戸の花嫁の誕生秘話についてでした!
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