J.Y. Parkパクジニョンとは?嫁との結婚&日本語がうまい理由!

韓国の芸能事務所JYPエンターテイメントの創設者で、多くのアイドルグループをプロデュースする一方、現役の歌手としても活躍しているパクジニョン(J.Y. Park)。

どんな来歴のかたなのでしょうか?

プロフィール、来歴、整形、日本語がうまい理由、結婚と妻、子供についてまとめました。

(トップ画像https://entertain.naver.com/より)

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目次
J.Y. Parkパクジニョンプロフィール
J.Y. Parkパクジニョンの来歴
歌手として
作曲家・プロデューサーとして
アメリカ進出
パクジニョンと整形
J.Y. Parkパクジニョン日本語がうまいのはなぜ?
J.Y. Parkパクジニョン結婚と離婚
J.Y. Parkパクジニョン再婚の嫁との出会い
嫁がセウォル号事件と関連している?
J.Y. Parkパクジニョンプロフィール

1971年12月13日生まれ
(戸籍上は1972年1月13日)
ソウル市出身

182㎝
AB型

兄弟:姉が一人

延世大学校理科大学地質学科学士
延世大学大学院政治学科中退

音楽プロデューサー、作曲家、歌手、ダンサーであり、起業家という万能エンターテイナー。

自身が創設したJYPエンターテイメントの社長(代表取締役)でしたが、現在は最大株主で、社内取締役として経営上の法的責任を負う立場だとのこと。

パクジニョンはレコード、カセットテープ、CD、ダウンロード&ストリーミングと、すべてを経験し、時代の先駆者でもあります。

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J.Y. Parkパクジニョンの来歴
お母さんの話によると、子供時代はイタズラっ子で、好奇心も旺盛。そして勉強のよくできる子だったそうです。

また同じリズムが繰り返されることが好きで、どこでも音楽が鳴れば踊りだしたんだとか。

お姉さんがピアノを習うときに一緒に習い、みるみる上達しました。

7歳(韓国年齢)のとき、父親がアメリカに赴任することになり、一家は渡米し2年半居住。

JYP代表パクジニョンJ.Y.PARKアメリカにいたころ
https://entertain.naver.com/

この時、マイケルジャクソンの存在を知ることとなり、黒人音楽に感動してその魅力にどっぷりはまってしまいます。

当時ダンスにも目覚め、ダンスバトルで1等を取ったことも。

アメリカでもとても優秀で小2の時、学校の先生から「今の学年ではもう習うことはないから上の学年に行ったらどうか」と提案された、と言うエピソードもあります。

子供のころたった2年半アメリカに住んだくらいでは英語を忘れてしまいそうですが、韓国に戻ってからもずっとアメリカの音楽やラジオ・テレビに触れながら成長し、英語力を維持。

ご両親はいつも反対せず、話をよく聞いてくれ、やりたいことを見守ってくれたそうです。

高校生の時にディスコへ通うときもその理由を論理的に説明したら、それさえも理解して許してくれたとか。

高校時代は生徒会長も務め、リーダーシップを発揮し、大学は名門延世大学に進学し地質学を専攻。

「歌手を夢見ていたわけではなく、教えるのが好きだから先生になるつもりだった」

とのことでしたが、大学生時代に音楽の世界で人生が開けていきます。

1992年(21歳)「パクジニョンと新世代」(歌手キムスチョルプロデュース)というグループでデビューしたものの、全く日の目を見ることはありませんでした。

ディスコで踊っていたところを、当時の人気歌手キムゴンモのマネージャーにスカウトされ、1993年同歌手のバックダンサーとして1年ほど活動。

このとき当時キムゴンモの曲を担当していた作曲家のキムヒョンソク(김형석)氏との出会いがありました。

作曲の過程を目の当たりにして、あまりに幻想的ですばらしく曲の作り方を教えて欲しいと懇願して弟子入り。

キムヒョンソク氏の家に住みこんでそのノウハウを学び、この時のノートは2年半で100冊にもなったそうです。

キムヒョンソク氏はこのときお金を取ることもなく、ただですべて教えてくれました。

当時韓国で競争相手は誰もいないと言うくらいの最高の作曲家だったキムヒョンソク氏に、周囲の人は

「パクジニョンにはもう教えないほうがいいんじゃないか?」

とアドバイスしたとか。成長したパクジニョンはキムヒョンソク氏を脅かす存在になるのでは?と心配したゆえの言葉でした。

それに対し師匠は

「全部教えて自分はもっと頑張ればいいだけ」

と答えたそうでそれを間接的に知ることになり、とても感動したそうです。

ダンス歌手を目指すようになったパクジニョンは自身が作った曲「날 떠나지마 (Don’t leave me)」を歌って多くの芸能事務所オーディションを受けましたが、すべて不合格。

SMのオーディションを受けた時には、曲もダンスも歌もいいけど、顔がダメという理由で落とされてしまいました。

会場を後にするとき、SMの社長から「この歌だけ売ってくれない?」と声をかけられ、きっぱり断ったというエピソードが有名です。

入社オーディションはSMが最後で、全て落ちたため他に行くところがなくなってしまいました。

しかしSMオーディションの時の曲を聴いた関係者の口コミで、創業したばかりの新しい会社から歌手を育てたいと言う連絡が入り、そこへ入社。

ついに歌手デビューとなりました。

歌手として
1994年、バラード曲だった「날 떠나지마 (Don’t leave me)」をダンス曲に編曲して歌謡界にソロデビュー。

この曲は当時新人だった俳優チョンウソンがモデルとなったガムのCMにBGMとして使われ、CMには「날 떠나지마(曲名)パクジニョン」という名前が表記されました。

まだ名の知られていなかったチョンウソンのことをパクジニョンだと勘違いした世間で

「パクジニョンはなんてイケメンなんだ!」

という噂が立ってしまいます。そんな中、本人が歌番組のテレビ放送に出演。

あのCMのイケメンがテレビで歌うと思っていた視聴者にとって衝撃的なステージとなったのでした。

入社した会社は不渡りを出してつぶれてしまいましたが、デビュー曲のヒットにより1996年自分の会社「テホン企画」を設立しました。

パクジニョンの歌手活動は歌謡界においてショックの連続だったそうです。

当時は現在よりはるかに保守的だった韓国芸能界。

ダンス歌手と言えば美男しかいません。

パクジニョンは独特な顔、奇抜なファッション、セクシーな歌詞とダンス、開放的な発言、自由な価値観など既存概念を打ち破るものばかり・・・。

黒い三角パンツに透明ビニールのズボンという格好は今や伝説です。

挑発的で扇情的な歌詞のダンスの曲を相次いで発表するまさに業界の異端児でした。

この時代、デビューするや数々のヒット曲を出して、シンガーソングライターとして脚光を浴びました。

90年代後半のご自身の曲は20年以上経った現在でも結婚式や学園祭などで歌われる名曲が多々あります。

しかし90年代を代表する歌手でありながらその一方で、さまざまな言動が誤解を招き、悪い評判が立つことも。

あるとき「彼女はいますか?」と番組で聞かれて正直に「いる」と答えたことでガクンと人気が落ちたことがあり、

「20年後、30年後、いつか実力で見返してやる」

と言う気持ちで、歌手時代はずっと悔しかったとご自身は回想しています。

作曲家・プロデューサーとして
1999年、パクジニョンがプロデュースした男性5人組アイドルgod(ジーオーディー)がデビュー。

国民的グループと呼ばれるほど爆発的人気を得ました。

2001年に発売した自身の歌「swing baby」も興行に成功しましたが、これ以降本人の歌手活動よりもプロデューサー業に専念。

2001年「テホン企画」はご自身の名前から、社名をJYPエンターテイメントと変えました。

2000年代に入り、さまざまな歌手のプロデュースを引き受け、曲はどれもヒット!

2002年にはピ(RAIN)、2000年代後半にはWonder Girlsを誕生させ、音楽界を席巻。

90年代の小室哲哉氏のような、街で流れる曲は全部パクジニョンの曲というほど名プロデューサーとして名を馳せました。

2008年デビューの男性グループ2PMは野獣アイドルと言われ、男性的な魅力を誇ってトップアイドルに。

2000年代はパクジニョンのプロデューサーとしての手腕が発揮され、JYPはSM,YGと並んで三大芸能事務所と呼ばれるまでに成長。

2010年MissA、2014年GOT7、2015年TWICE、2018年StrayKids、2019年ITZYなど多くの人気グループを誕生させました。

これまでに発表した曲は500曲以上。2012年~2014年には音源著作権収入1位となりました。

それまで韓国著作権収入1位は作曲のすべてを教えてくれた師匠キムヒョンソク氏でしたが、パクジニョンが1位になったことについて

「いつか自分が1位でなくなる日が来ると思ったが、それがおまえで嬉しい」

ととても喜んでくれたのだとか。

意外かもしれませんが、パクジニョンは俳優として2011年ドラマ「ドリームハイ」、2012年「ドリームハイ2」などの作品に出演したことも。

音楽プロデューサーでありながら、現役の歌手で、誰もが認めるマルチエンターテイナーです。

2019年、JYPと日本のソニーミュージック共同によるNizi Projectが始動。

NIZIUNiziIU(ニジユー)

2020年11月のデビューに向け、パクジニョン氏がオーディションで選抜した女の子たちをグローバルに活躍できるグループに育成するプロジェクトで、多くの注目を集めました。

アメリカ進出
話は前後しますが、2000年代に入りパクジニョンはアメリカへも進出しています。

2005年ウィルスミスの「I Wish I Made That」を作曲し実力を認められ、2008年にWonder Girlsは本格的にアメリカでの成功を目指しました。

しかし苦労もむなしく2008年のリーマンショックで、アメリカデビューは失敗に終わり、その間に国内の人気はSM所属の少女時代へと移ってしまいました。

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パクジニョンと整形
パクジニョンはSMのオーディションに落ちたのも「顔」のせいですし、若い頃は「顔さえよければ・・・」という評価をたくさんもらいました。

それだけ顔についてあれこれ言われても、整形は全くしていないそうで、有名になってからのトーク番組で

「整形したいと思ったことはないの?」と聞かれ

「自分は確率のないところに投資はしない」

と答え、いかにもビジネスマンらしい、成功者らしい答えだと話題になりました。

J.Y. Parkパクジニョン日本語がうまいのはなぜ?
Nizi Projectをご覧になった方はパクジニョンがあまりに日本語が上手くてびっくりされたのではないでしょうか。

もしや過去に日本に住んだことがあったのでは?と調べましたがそういう事実はありませんでした。

Nizi Project始動にあたり、2019年2月の日本メディアインタビューで、パクジニョンについて「日本の方と音楽について深く話し合うために日本語を初めて学んだ」と伝えられています。

このプロジェクトのために新たに学んだようですね。

2019年、ある番組でパクジニョンの日課が公開されました。

1995年から毎日続けていることだそうです。

パクジニョンの日課

7時半起床:目が覚めたらすぐ日本語の暗記。すぐに体重を測る。

朝食:オリーブオイルを飲む。各種栄養剤、ナッツ類、果物を食べる

9時:朝の体操とダンスのためのバランス運動をする

10時:発声と歌の練習

その他
・毎日ウェイトトレーニングをする
・体重管理のため、夕食は一週間に3日しか食べない。
・空腹に耐えるため、月曜と木曜は2時間バスケをする
・決まった時間にトイレに行く
・その日着る服を選ぶのにかかる時間を減らすため、季節ごとに服は2着ずつしか準備しない

1年に2~3日以外は毎日、この日課を守っているそうです。

2012年にもこの日課がテレビ番組で紹介されましたが、この時「日本語の勉強」は入っておらず、8時起床となっていました。

SONYミュージックエンターテイメントと仕事をすることに決まってから30分早起きして、長年の日課に日本語の勉強を加えたのではないかと推測します。

パクジニョンは健康管理だけでなく、時間管理も徹底しており、1分1秒も無駄にしないことで有名だとか。

40代半ばで新しいことにチャレンジし、あそこまでの日本語を身につけられるというのはすごいですね

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