イケメン叔父さんという印象の強い片桐竜次さんを紹介していきます。
片桐竜次(かたぎりりゅうじ)さんは1947年の俳優さんで、本名は羽多野貢二という名前みたいです。
身長は176㎝と高身長で、体重は70㎏、山口県の下関市出身です。
なんと大阪ガス勤務を経ていたらしく、1969年に東映ニューフェイス13期生として入社し、同期には 成瀬正孝さん、岩本良子さん、女屋実和子さんがいます。
1971年に映画『女番長ブルース 牝蜂の逆襲』で本格的にデビューし、映画やテレビドラマで斬られ役や殺られ役、悪役や敵役などの演技力が高くなければ入れない俳優たちが所属している ピラニア軍団の一員としても活動しており、優れた身体能力の持ち主で1970年代から80年代にかけての全盛期のアクション系作品では、立ち回りや銃撃戦などの アクションシーンにおいても本領を発揮していました。
ヤクザ映画や時代劇、刑事ドラマでヤクザや凶悪犯などの悪役を数多く演じていましたが、90年代に入ってからは善玉役も増え、近年は 刑事ドラマで警察幹部などを演じることも多いみたいです。
有名どころでは1973年に放送していた「仁義なき戦い」、「あぶない刑事シリーズ」、「水戸黄門」や「太陽にほえろ!」などなどの多くの大人気シリーズに出演しています。
有名な「相棒」シリーズにて、 放送300回目を祈念した記者会見にて片桐竜次さんは小野了さんとこのようなコメントのやり取りをしていました。
片桐 「あっという間だという感じですかね。
300回やったからといって、昔を振り返っても300本全部を覚えているわけではないです。
ただ、再放送を見たりして自分を見ると 『あぁ年を取ったなぁ』と思うことはありますね(笑)」
小野 「そうですね、全く同じですかね。
再放送を見ても誰が犯人か分からない時がありますもんね。
『この回、俺出てないな』と思いながら見てる途中で『あ、出てきた!』というのがあるくらいの本数を体験している役者さんも少ないでしょうしね。
その長さは驚きます」
お互いに仲がよさそうで、お二人とも刑事の役がとてもあっていますよね。
また2016年には俳優生活45周年を記念して、 初主演映画「キリマンジャロは遠く」が制作されました。
その時の記事がありました!
映画を観終えたばかりの観客の前に立った片桐は「ジャン・ギャバンやアラン・ドロンが好きで。
そんなフィルム・ノワールの世界を下町に置き換えて。
監督以外のスタッフには気を遣いながら。
なんとか監督をごまかしながら、極力セリフを減らしてできたかなと。
終わってみると、まあまあかなと思いますけど」と謙遜しつつも、「10月に東京で公開が予定されているので、少しでも多くの人に観てもらえればと思います」と誇らしげな顔を見せた。
といった様子で、かなりの自信家のようですね!
調べたところ、子供がいるのかいないのかよくわかりませんが、気になる情報が見つかりました。
「Joe Hatano」が片桐竜次の息子なのか?片桐竜次の家族構成
奥さんはいるみたいで、調べると「Joe Hatano」という名前が出てはきますがはっきりとした情報が見つかりませんでした。
この「Joe Hatano」さん TwitterやFacebookなどをされているみたいですが、ほぼ外国語でこれといって家族のことや自身のことをつぶやいてはいませんでした。
上の画像が 「Joe Hatano」さんと思われる方で、とても美形ですよね。
しかし、 羽多野という姓は片桐竜次さんの本名の姓と同一なため、おそらく息子さんであると思われます。
片桐竜次が結婚した嫁(妻)は羽多野充絵
羽多野充絵さんは一般の方で、 都内のストレッチ教室でインストラクターをされているみたいです。
羽多野充絵さんと仲が良いような方のブログがありましたので引用させていただきます。
今日は、昔からの友達と飲みました。お互いに人生の歴史を知っているので、楽しかった。
彼女のご主人は、俳優の片桐竜次さん。
息子さんもニューヨークでアーティストとしてがんばっています。
名前は、JOE HATANO。
最近、ニューヨークには行っていないので、そろそろ行ってみようかな。
ここでも「Joe Hatano」という名前がでており、この情報によるとニューヨークのアーティストみたいです。
片桐竜次と羽多野充絵はCMで共演していた?
調べたところ、共演していたことは本当みたいです。
様々な業界で活躍する人々。
しかし、活き活きと働くその姿とは裏腹に人それぞれの波乱な人生が…。
そんな人々の人生、生き様を通して健康のありがたさを知る。
をスローガンにテレビ東京で土曜日に放送している「夢、叶えるために…」という ドキュメント番組のCMにて、奥さんの羽多野充実さんと共演していたみたいです!
かなり厳つい印象の片桐竜次さんですが、これからも実力派俳優として活躍を期待しています。
片桐竜次の若い頃は会社勤務と俳優業の二足のわらじ
片桐竜次さんは、山口県下関市立彦島中学校を卒業した後しばらくして、大阪ガスに勤務していたそうです。
サラリーマン時代の1969年に開催された「東映ニューフェイス」のオーディションにエントリーし、見事に合格!
これが片桐さんの俳優となるきっかけだったのです。
そして、東映の13期生で俳優として入社した片桐さんで、当時21歳の彼は俳優課という部署に所属し、振られた役を演じていたとか。
東映に俳優として入社しても、大阪ガスの給料がよかったので、辞めず2年間くらいは二足のわらじで頑張っていたそうです。
会社を休んでは京都撮影所まで撮影によく行っていたそうで、当時の片桐さんの収入は高収入だったかも( ー̀ωー́ ).。o
東映の給料は固定給だったそうで、当時は1万3000円+日当、それプラス会社の給料で、大阪ガスの給料に満足していたようです。
1969年の物価を調べてみると、公務員の大卒初任給が27.906円で、公務員の高卒初任給で20.204円。
かけそば:80円・ラーメン:90円・新聞購読料:660円だったそうな。(昭和の物価 – 団塊世代の想い出を参考)
そして、1971年公開の映画『女番長ブルース牝蜂の逆襲』で俳優として本格的にデビューを果たしたのでした。
片桐竜次が加入したピラニア軍団は元は忘年会の名前だった
東映の俳優社員は200人~300人にたそうで、その中には志賀勝氏や川谷拓三氏もいたとか。
志賀氏や川谷氏を含め、4~5人で飲んでいたそうですが、悪酔いするという理由から忘年会に呼ばれなかったため、自分たちで忘年会をやろうと立ち上げたのが「ピラニア会」。
ピラニア会のメンバーは掲示板で募集したそうな。
始めは東映所属の大部屋俳優数人でしたが、最終的には20人くらいになり、ピラニア会の飲み食いの面倒をみていた映画監督の中島貞夫氏と渡瀬恒彦氏が発起人となり「東映ピラニア軍団」として結成されたそうです。
その後、ピラニア軍団は段々と注目を浴びるようになり、ピラニア軍団ブームが!!
ピラニア軍団出演の映画公開や、歌をリリースしたりとかなり忙しくなったようです。
ですが、時代の流れがあり、1980年代に入ると映画俳優集団としてのピラニア軍団は自然消滅したのでした。
片桐竜次の最終学歴と経歴のまとめ
下関市立彦島中学校卒業(最終学歴)
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1969年に開催された「東映ニューフェイス」というオーディションに参加
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東映株式会社 東京撮影所 マネージメント部13期生として入社
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1971年に公開された映画『女番長ブルース牝蜂の逆襲』で俳優として本格的にデビュー
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ピラニア軍団に加入
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東映株式会社 東京撮影所 マネージメント部を2021年12月31日に退所し個人事務所「カメリア」を設立