生瀬勝久さんと妻・堀本陽子さんの馴れ初めは、劇的なものでした。
それは、16歳の堀本さんが舞台で見た生瀬さんに、電話番号付きのファンレターを送ったことから始まる二人の物語。
生瀬勝久と妻・堀本陽子の馴れ初め
生瀬勝久(なませ かつひさ 1960年10月13日生)さんと妻・堀本陽子(ほりもと ようこ 1972年6月18日生)さんの出会いは、堀本さんが16歳の時に生瀬さんが出演していた舞台を見に行ったことがきっかけでした。
堀本さんは生瀬さんのファンになり、電話番号付きのファンレターを送ったことで交流が始まりました。
生瀬勝久と堀本陽子【12歳差を超えた愛】
二人の年の差は12歳で、堀本さんが20歳になった頃に本格的に交際がスタート。
出会いから9年後、交際を始めてから5年後、堀本さんが24歳のとき1997年に結婚し、ハワイで挙式を挙げています。
堀本陽子のプロフィール
堀本陽子さんは、大阪出身のモデルでヨガセラピスト(ヨガインストラクター)。
18歳の頃、上京しモデルとして活躍し、現在はヨガセラピストとしても活動。
『CanCam』(小学館)や『CLASSY.』(光文社)などのファッション誌で活躍。
その後、俳優・生瀬勝久と結婚し、出産を経験。
現在は一児の母として、光文社の『VERY』や『美ST』に出演し、ヨガセラピスト(インストラクター)の資格も取得しています。
都内の落ち着いた住宅街に位置する自宅には、ヨガのレッスンや舞台稽古が行える広さ40畳のスタジオスペースを完備しています。
生瀬勝久のプロフィール
生瀬 勝久さんは、兵庫県西宮市出身で、同志社大学卒業。
学生時代は、吹奏楽部でサックスを担当し、生徒会会長や駅伝選手としても活躍。
大学では劇団『第三劇場』に所属し、1983年に『劇団そとばこまち』に入団。
1988年に『そとばこまち』の座長に就任し、コント番組『週刊テレビ広辞苑』などで人気を博す。
1988年のNHK連続テレビ小説『純ちゃんの応援歌』に出演。
1990年代半ばから全国区のテレビドラマに進出し、2001年に劇団を退団。
2010年に『警部補 矢部謙三』(テレビ朝日系)連続ドラマ初主演、2012年に映画『スープ〜生まれ変わりの物語〜』で単独初主演。
2005年に『お父さんのバックドロップ』で高崎映画祭最優秀助演男優賞、2013年にベスト・ファーザー イエローリボン賞を受賞。
生瀬勝久さんと堀本陽子さんの馴れ初めは、堀本さんの熱心なファン活動から始まりました。
年の差を超えた愛を育み、現在は息子さんと共に幸せな家庭を築いています。
これからも二人の活躍に注目していきたいですね。
生瀬勝久(なませかつひさ)は、日本で活動する役者。1960年10月13日生まれの兵庫県西宮市出身。リコモーション所属。
同志社大学在学中に、劇団「そとばこまち」に入団。1983年に舞台『猿飛佐助』で初舞台を経験し、役者デビューを果たした。
劇団での活動を並行して、コント番組『週間TV広辞苑』(読売テレビ)などの深夜バラエティに出演。関西を中心にテレビやラジオに多く出演し、大学生を中心に人気を博した。
役者としての活動に力を入れたあとは、”個性派俳優”としてドラマ『トリック』シリーズ(テレビ朝日)や『ごくせん』シリーズ(日本テレビ)、『あなたの番です』(日本テレビ)など多くのヒット作に出演。また、『カイジ2〜人生奪回ゲーム〜』や『マスカレード・ホテル』など多くの映画作品にも出演している。
初めてNHKの作品に出演する前は「槍魔栗三助(やりまくりさんすけ)」という芸名で活動していたが、この芸名だとドラマに出演できなかったため、本名である現在の名前に変更した。
プロフィール
芸名 / 読み 生瀬 勝久 / なませ かつひさ
誕生日 10月13日
出身地 兵庫県
身長 / 体重 / 血液型 178.0cm / 70.0kg / O型
星座 / 干支 てんびん座 / 子年
出典:タレントデータバンク
生い立ち
生瀬勝久は、1960年10月13日生まれの兵庫県西宮市出身。O型。
現在年齢は63歳。身長178cm。リコモーション所属。
母親は小学校教師・市議会議員
生瀬勝久の母親は小学校教師で市議会議員。
父親は釣り好き。
また、兄弟は兄が1人いる。
西宮市出身だが、実家のすぐ隣が西宮市と宝塚市の境界線であったため宝塚市にもなじみ深い。
生瀬勝久の母親は宝塚市市長・中川智子と友人関係にあり、家族で宝塚市にある宝塚ファミリーランドを訪れることも多かったという。
高校時代のアルバイトは時給350円
生瀬勝久は宝塚高校出身で、当時は宝塚ファミリーランドでバイトをしていた。
時給350円でビンジュースを販売していたという。
宝塚高校卒業後、同志社大学に入学するまでに1浪しており、その期間はお好み焼き屋でアルバイトしていた。[出典11]
尚、同志社大学では2回の留年も経験している。
また、若い頃に劇団員として活動していた際も、ブレイクするまではアルバイトで生計をたてていた。
劇団でのチケット代は次の作品を公演するためにストックされており、劇団員には一銭も入らなかったという。[出典12]
芸能活動
同志社大学在学中に劇団「そとばこまち」に入団
生瀬勝久は、1980年に同志社大学文学部社会学科に入学。
在学中の1983年に劇団「そとばこまち」に入団し、同年公演の舞台『猿飛佐助』で初舞台を踏んだ。
また、同志社大学卒業後の1988年に同劇団の4代目座長に就任すると、役者だけではなく劇作家・演出家としても活躍。
さらには、劇団の活動と並行して各メディアにも出演し、関西のテレビ・ラジオで数多くのレギュラー番組を抱えていた。
特に1988年放送のコント番組『週間TV広辞苑』(読売テレビ)をはじめとする深夜帯のバラエティ番組は、大学生を中心に人気を博した。