日本のコーエーテクモゲームス(当時 光栄)が初の歴史シミュレーションゲーム『川中島の合戦』を発売したのはいつか?
――正解は、1981年である。
そのときには、まだパソコンでゲームをする文化自体が相当にマイナーな楽しみに過ぎなかった。有名なパソコン版の『シヴィライゼーション』が発売されたのでさえ、ずっと後のことである。しかし、そのゲームは、紡績業を営んでいた光栄という会社が大きく業態を変えていく転換点になるほどの話題を日本で獲得した。
その2年後、彼らは『信長の野望』という大人気歴史シミュレーションゲームを生み出した。コーエーテクモホールディングス社長・襟川陽一氏ことシブサワ・コウは、それをRPGや司馬遼太郎の小説をヒントに作り上げたという。我々の遊んできたこうした『信長の野望』などの歴史シミュレーションゲームは、実はコンピュータゲーム史にほとんど忽然と登場したゲームに近い。
『ファミコン通信』1988年05月20日発売号085ページ
『ファミコン通信』1988年05月20日発売号085ページ
その後も、コーエーは「世界初」のゲームを生み出し続けてきた。そのラインナップは幅広く、投資のゲームに経営のゲームに、エロゲの元祖まである。中でも、コーエーが「女性向けゲーム」というジャンルを切り開いたことは、つとに有名である。今回のインタビューでは、それがコーエーテクモホールディングス会長にしてシブサワ・コウの妻・襟川恵子氏の、ほとんど女性についての信念のようなものから生まれていたということがわかった。
実は日本人の多くは――いや、ゲーマーでさえもその多くは――コーエーがゲーム史において、驚くほど数々の「世界初」を開拓してきたのを知らずに遊んでいるのではないか。
しかも、その数々の名作たちが、染料工業薬品の卸業を営む夫婦が、ある日パーソナルコンピュータを手にしたことから始まったというエピソードも、やはり知る人は少ないだろう。彼らは二人三脚で、世界に類を見ないオリジナルのゲームを、独自の値付けや流通のやり方で世に送り出してきたのである。
既存の発想にとらわれず、常に自分たちの頭で考えてきたコーエー35年間の軌跡を、本邦初となる襟川社長・会長夫妻同席の取材で聞いた。
※ 以下の記事では、社名としての「光栄」以外では、ゲームブランドとしての「コーエー」で表記を統一しています。
聞き手/TAITAI、稲葉ほたて、斉藤大地
文/稲葉ほたて
カメラマン/増田雄介
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目次
事業不振のなか出会った「夢のような箱」
初期のパッケージは恵子氏が描いていた
ファミコン参入時の”大作戦”
コーエーの価格はなぜ高かったのか?
シブサワ・コウのゲーム制作術
世界初の女性向けゲーム『アンジェリーク』誕生秘話
東大やハーバードが注目した『信長の野望』
「新しいことに挑戦してこそゲーム」(陽一氏)
事業不振のなか出会った「夢のような箱」
――襟川さんは普段からゲームがお好きだと聞いています。
襟川陽一氏(以下、陽一氏):
今も、暇があるとゲーム機か、スマホでずーっとゲームを遊んでいますし、大抵のジャンルは一通りやっていますね。最近も『Bloodborne』(※)にハマってしまったせいで時間が取られてしまい、困っています(笑)。
※『Bloodborne』
SCEジャパンスタジオとフロム・ソフトウェアによるアクションRPG。取材をした時期は2015年にソニーコンピュータエンターテイメントからPS4で発売された直後。
襟川恵子氏(以下、恵子氏):
毎日、必ず朝の6時から出社するまで、ずっとゲームをやっているんですよ。それも、他の会社のゲームをずっと(笑)。しかも夜中も、会食から帰ってきたと思ったら、また寝るまで晩酌しながらずっとゲームをしているんです。
陽一氏:
もちろん、会社では自社のゲームをプレイして、全てチェックしています。でも、帰宅して寝る前に1時間でもあったら、本も読まず、映画も見ずにゲームばかりプレイしていますね。以前は、そういうときにテレビを見ていた時期もあるのですが、年をとるにつれてゲームばかりになっています。
カドカワ会長・佐藤辰男氏(以下、佐藤氏):
普段は、どんなジャンルのゲームをプレイされるのですか?
陽一氏:
RPGが多いです。というのも私は、一旦エンディングまで行ってもすぐにはそのゲームの世界から離れたくなくて、意味もなく一ヶ月くらいずっとプレイしてしまうんです。『ポケモン』も『ドラクエ』も『ペルソナ』も、毎度毎度ついそうやってしまうんですよ。
――「その気持ち、よく分かる!」という読者は多いと思います(笑)。それにしても、シブサワ・コウが『ペルソナ』をプレイしているのは、なんだか意外です。 『ペルソナ4』(※)ですか?
※『ペルソナ4』
2008年にアトラスより発売されたPS2用ゲームソフト。襟川氏の語っている『ペルソナ4 ザ・ゴールデン』は、数々の追加要素や変更が加えられてアニメ化もされた、2012年発売のPS Vita版。
陽一氏:
『女神転生』から大好きだったのですが、もう『ペルソナ4 ザ・ゴールデン』は素晴らしかったですねえ。『ペルソナ4 ダンシング・オールナイト』が出てくると聞いたときも、すぐに買おうと思ったんです。キャラが可愛いですよね。
もちろん、色々な要素を楽しませていただいたのですが、特に『コミュ』というシステムで女性キャラと恋人になる工程はとても楽しくて、たぶん百時間以上は遊んでいると思います。クリアしてもまだ物足りなくて、朝早く起きてはフラフラとずっとプレイし続けたのを覚えています。もう老人の徘徊みたいですよね(笑)。
――10代の子たちにとって、今やペルソナシリーズは大人気コンテンツですが……襟川さんのお年は65歳ですよね。その年齢で『ペルソナ』にどっぷりとハマられるというのは、本当に感受性が若いというか……(笑)。
陽一氏:
いやあ、もう全てが好きですよ。あのオープニングなんて、私にはとても出来ないです(笑)。
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(C)ATLUS CO.,LTD. 1996-2008
テレビの向こう側に行って戦うアイディアも、大変に素晴らしいですね。あまりにファンなもので、2、3ヶ月くらい前にあった武道館ライブ(※)に関係者チケットをいただいて参加しちゃいました(笑)。生であの素敵な音楽を聴けて、あの日は本当に感激しました。(陽一氏)
※2015年2月5日に開催された『PERSONA SUPER LIVE2015 ~in 日本武道館 -NIGHT OF THE PHANTOM-』のこと。『ペルソナ3』『ペルソナ4』の楽曲をメインとした公演が行われつつも、『ペルソナ5』の最新プロモーション映像が公開されるサプライズもあった。
佐藤氏:
襟川さんの、とてつもないゲームファンぶりが伺えるお話ですね。
――たぶん、ヘタなゲームライターよりちゃんとプレイされています(笑)。それにしても、襟川さんのこういう一線を越えたゲーム好きのエピソードや、プログラマとしての腕っぷしの逸話というのは、あまり語られてこなかったですよね。
恵子氏:
そういえば昔、選挙管理システムを作っていたわよね。
佐藤氏:
ええ、そんなものを(笑)。
陽一氏:
80年代には、そういう業務用ソフトも作っていました(笑)。そもそも我々は、まずはゲームの前に在庫管理ソフトなどを開発するところから始めていますからね。
――プログラマとしては、かなり長いあいだ現役だったのですか?
陽一氏:
ゲーム会社としてのコーエーは、81年に『川中島の合戦』(※)という最初のゲームを作ったところから始まりました。そして、83年に『信長の野望』、85年に『三國志』、88年に『蒼き狼と白き牝鹿』と出して、その後はしばらくシリーズ続編の制作をしていました。この頃までは、基本的には私が自分で企画を立ててメインプログラマで組んでいました。
とはいえ、現役だったのは、ちょうどプレイステーションが出た辺りの、90年代半ば頃までのことです。その後は、ゲームは約200人もの人数でプロジェクトチームとして分業しながら作るようになっていきましたからね。
※『川中島の合戦』
1981年に光栄マイコンシステムが発売した『シミュレーションウォーゲーム 川中島の合戦』のこと。『投資ゲーム』と同時発売された。
恵子氏:
そういえば、受託仕事のゲームでマシン語が必要になって、「ウチの社員にマシン語はムリ」なんて言って、あなたが自分で組んだのがありませんでしたっけ。
陽一氏:
ああ、それは『忍者くん』(1984・UPL)(※)だ。あと、受託仕事で印象的だったのは、『FORMATION Z』(1985・JALECO)(※※)という業務用ゲームをパソコンゲームに移植した仕事ですかね。このゲームはすごくて、プログラムも仕様書も資料もほとんどなかったんです(笑)。
一応、アセンブラのリストがあったのですが、プログラムが整理されていないから、何が書いてあるのか全くわからない。「こりゃもうダメだ」と判断して、ひたすら自分でゲームを遊びまくって”目コピ”をして、アセンブラから組み直して作りました。
※1984年にUPLが製作したアーケードゲーム。赤い頭巾をかぶった1.5頭身の「忍者くん」を操作し、手裏剣を投げる攻撃とジャンプを駆使して敵キャラクターを倒していく。コーエーは他機種版への移植を担当した。
※※1984年に稼働を開始したジャレコによるアーケードゲーム。横スクロール型のシューティングゲームであり、プレイヤーの操る戦闘機がロボット形態に変形できるのが特徴。
――凄いエピソードじゃないですか。まるでスパイク・チュンソフト会長の中村光一さんみたいな(笑)。
恵子氏:
当時いたエンジニアのトップが「こんなもの移植できるわけがない!」と断言したんですよ。
そうしたら、負けず嫌いなこの人が「絶対にできる!」なんて言いだして、もう大変なことになってしまって……ついに徹夜を繰り返してプログラムを組みはじめたんです。しかも、そのエンジニアは業務でアセンブラに通じているのに、この人は彼に一切触らせようとしなかったんです。
そのエンジニアも、しまいには仕事はないわ、社長を働かせてしまっているわでオタオタしてしまって……帰ればいいのに社内で待っていましたよね(笑)。私も、お腹を空かして夜通し作業をしている襟川と彼に、朝になると雑炊などの差し入れをしていました。私たちが、ほとんど24時間営業のように仕事をしていた時代の話です。
そういえば、いま思い出しましたけど、確か夜中の3時頃に襟川の仕事部屋に入ったら、コードに足を引っかけてしまって、完成間近のソフトを一から作り直すことになってしまった事件が何回かありましたわね(笑)。
――当時の雰囲気が伝わってくるエピソードですね。
佐藤氏:
いやあ、素晴らしい話ですね。
陽一氏:
まあ、私としてはプログラミングはただただ楽しいんです。ゲームも私の一生のお友達ですしね。基本的には、全く辛くはありませんでした。 それに、私の場合は寝てしまうと、頭の中に入っているアドレスやサブルーチンの位置や内容が記憶から消えてしまうので、起きている間に一気に組み上げたいんです。だから、プログラムを書いていた頃は、もうなるべく一気呵成に書き上げるようにしていました。当時は、寝る時間も大変に少なかったです。
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――この連載は、有名ゲームの誕生秘話を、企画書を見せていただきながらクリエイターに話を聞いていくシリーズなんです。ただ、今日はせっかくなので特定のゲームに絞らず、コーエーの創業秘話を中心にお伺いさせていただこうと思っています。お二人が同時にインタビューを受けられるのも、実はあまりないんですよね。
恵子氏:
ええ、初めてです。
――ファンには有名な話ですが、コーエーのゲーム会社としての馴れ初めは、会長がパソコンを襟川さんの誕生日にプレゼントされて、それから襟川さんがゲームの開発を始められたというものですよね。
恵子氏:
でも、その前にNECの渡辺さんが作った、TK-80という8ビットマイコンのトレーニングキットを襟川が買っていて、一生懸命に組み立てていたのを見ていたんですよ。
陽一氏:
そうそう、パソコンに組み立てるキットで、8080シリーズのインストラクションを勉強していました。そうしたら30歳の誕生日に、妻にMZ-80C(※)を買ってもらえたんですね。
※MZ-80C
1979年にシャープが発売したパーソナルコンピュータ。データレコーダーの内蔵、グリーンモニターの採用など、基本設計が同じであるMZ-80Kに比べて高価なパーツが使用されていた。
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一番最初のやつをちゃんと保存してるんですね(佐藤氏)
――ただ、そのエピソードであまり出てこないのが、なぜ奥様がご主人にパソコンを買い与えたのかということなんです。
恵子氏:
それには、コーエー創業の経緯を話す必要がありますわね。 そもそも義父の元々の会社は、染料工業薬品の卸問屋で、一時期は両毛地区(※編注:群馬県と栃木県の一帯)で最も大きなくらいの卸問屋でした。でも、時代の流れで繊維産業が成り立たなくなったときに、義父は莫大な借金を抱えてしまったんです。
陽一氏:
ちょうど東南アジアから安価な繊維製品が大量輸入されるようになり、日本の繊維産業が斜陽産業の代名詞になりだしていた時代です。そうして、私が故郷の足利に帰って3ヶ月後には、父から経営の訓を受ける間もなく会社が倒産してしまいました。
恵子氏:
一つ言うと、義父は会社がなくなる前に土地を売却したりして、地元になるべく迷惑がかからないように負債を整理しておいたんです。だから、よく本人は「あれは倒産ではなくて廃業なんだ」と言っています。 ただ、会社が”廃業”しても襟川家の商圏は継続できましたので、なんとか襟川に事業を継いでほしいという思いが義父にはありました。
陽一氏:
私自身もその後、一年くらい残務整理をしながら悔しい思いをしていました。そこで、「父親が続けられなかった会社経営を、自分でやってみたい」と思い、光栄を起業しました。まあ、今となっては若気の至りだなと思いますが(笑)。
恵子氏:
でも、私は足利には行きたくありませんでした(笑)。実は「父の会社が倒産しないかな、そうしたら足利に行かなくて済む」と思っていたら事実になったので、内心大喜びでした。不謹慎な話ですよね。襟川も地方の先行きを見越して、こちらでの起業を考えていました。
しかし、義父には何としても息子に家業をつがせ、お家再建を果たす夢がありました。すると、私も足利に行かなければこの先、一生後悔するという気がしてきたんですね。義父のためにやれるだけやってみようと、私も足利に行く決心を固めました。
ところが、襟川の両親は逆に日吉の私のマンションへと引っ越してしまい、襟川も私の日吉の実家でパソコンショップを開いたんです。足利を離れることも多くなり、私は幼子ふたりと、夜になると怖くて寂しくなるような山の中で仕事をしていました。しかも、会社を継いだはいいのですが、倒産した襟川のところに仕事は来ないわけですよ! ヘビやネズミにムカデは来ましたけれども(笑)。
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――まあ、そうですよね……。
恵子氏:
当時は、それまで取引があった会社に襟川が見積もりを頼んでも、何週間も返答に時間がかかったんですよ。資金面での不安が残っていますから、倒産した会社の跡継ぎなんかと取引したくないという態度が見え見えなんですね。仕事にならない日々が続きました。
ところが、そんなある日、襟川が「夢のような箱がある」と言いながら帰宅したんです。何でも、彼が本屋で見つけた雑誌に載っていたというその箱を使うと、何週間もかかる見積もりの計算が自分で簡単に出来てしまうというんです。それが――マイコンでした。
陽一氏:
当時、会社を作ってはみたものの上手く行かず、「ああ、やはり自分には経営者としての才覚がないのかな」と悩んでいたんです。それで本屋に行っては、松下幸之助さんや稲盛和夫さんなどの成功された経営者の書かれた本を立ち読みしたり、買ってきて読んだりしていたんです。
そんなある日、ふと『マイコン』という雑誌が目につきました。パラパラと開いてみたら、マイコンを使えばコンピューターソフトで教育ができたり、社内のOA化でコストダウンがはかれたりという、まるで夢のような話がたくさん書かれているんです。「こりゃ凄い」と思って、私はさっそく家に帰って妻にそのマイコンの話をしたんです。
恵子氏:
でも、価格を聞いて、ビックリしてしまって……。だって、当時のマイコンは、周辺機器もあわせると40万円以上したんです。
ただ、私は小さいときから親戚にもらったお小遣いを貯め込んでいるような子供で、学生時代から自分で仕事や投資もやっていたので、貯金だけはたっぷりありました。そこで、彼のお誕生日にマイコンをプレゼントをしたんです。
そうしたら、もう襟川がすぐに凝ってしまって……。
陽一氏:
いやもう、たちまちのうちにハマってしまいました(笑)。
すぐにベーシックやマシン語を覚えて、財務管理や在庫管理、あるいは見積もりのソフトを自作するようになりました。
佐藤氏:
まだパッケージソフトなんて売っていなかった時代の話ですよね。せいぜいApple II(※)のVisiCalcが使えるくらいで。
※Apple II
アップル社が1977年に発表したパーソナルコンピュータ。個人向け販売されたパーソナルコンピュータとしては最初のヒット作となった。VisiCalcは表計算ソフトの先駆けで、Apple IIのキラーアプリだった。
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陽一氏:
ああ、懐かしいですねえ! 当時マイコンを手にした人々は、私にかぎらず、みんな自分で自分の欲しいものをプログラミングして作っていましたよね。
そして、そうこうするうちに業務用のソフトの販売が、どうも自分の会社を助けてくれそうだと分かってきたので、外注のソフト会社として受託開発を始めたんです。
恵子氏:
もう、気がついたら襟川は「これからの仕事はマイコンだ」なんて言い出していたんですよ(笑)。「それ、あなたの本業とは違うでしょ」という話なのですが、実際にその後パソコンは一世を風靡して巨大な産業になってしまいましたからね。
――実は以前にソフトバンクグループ総帥・孫正義(※)さんの弟である、ガンホー会長の孫泰蔵さんから、まだソフトの卸業者だった時代の孫正義さんと襟川さんのお話を聞いたんです。なんでも、二人して襟川家で「将来は大成功して……」と夢を語り合っていたら、奥様に「本当に男は夢ばっかり見て!」と呆れられたという……。そんな逸話を聞いて、「なんていい話なんだろう」と思った記憶があります(笑)。
※孫正義
ソフトバンクグループの創業者。日系朝鮮人の2世として生まれて、16歳で渡米。バークレー大学卒業後、日本ソフトバンクを設立した。その後、ソフトの卸業や出版業から通信事業、球団経営など幅広く事業を手がける。2014年には、フォーブスの世界長者番付で総資産184億ドルで日本富豪ランキング1位、世界富豪ランキング42位となっている。
陽一氏:
ああ、当時はそんなこともあったでしょうね(苦笑)。
孫さんは、出会った頃は26歳くらいだったかなあ。今では投資から通信まで色々と手がけているけど、あの頃はパソコンソフトのディストリビューターだったんです。だから、もう毎週のように仕事で孫さんとは会っていました。彼は当時からアイディアマンで、いつも面白かったですね。
恵子氏:
でも、当時の孫ちゃんはマヌケな失敗もたくさんしているんですよ。本当に、ここでは言えないようなおかしな発明品の事業の話を持ってきたりして、私は困ったんですから(笑)。
それなのに、「兆のつく仕事がしたい」(※)なんて言っていて、当時の私は「チョウ(丁)のつく仕事はお豆腐屋さんだ」と思っていました(笑)。それが、有言実行。すごい努力家でしたし、集中力と才能もあったんです。
昔、彼は会社でなぜか靴を履かなかったんです。いつも靴下でぺたぺたぺたぺたジュータンの上を歩いていました。社員がうちにいらして、孫さんに電話しながら「孫よ!今どこにいると思う?襟川さんのところだよ」なんて社長を呼び捨てにしていたこともありました。孫ちゃんも大らかな人ですよ。立派に成功なさっても、「泰蔵も僕も髪がどんどん薄くなるのは襟川さんのせいだ」なんておっしゃっていましたね(笑)。
※ 孫正義氏がソフトバンク創業初日に、アルバイト社員二人の前でみかん箱の上に乗って「30年後には豆腐屋のように、1兆(丁)、2兆(丁)とお金を数えるようになる」と演説したという逸話。ちなみに、そのアルバイト二人は、「この人は頭がおかしい」と一週間後には退職したという。
――それにしても襟川会長は、お話を聞いているとだいぶ金銭感覚に鋭かったのですね。
恵子氏:
そうですか? でも、私が多摩美術大学にいたときに学生運動でストライキがありまして、その頃から自分で仕事をして稼いだり、株式投資をしたりはしていました。そもそもコーエーの営業担当者は私でしたし、現在もこの会社では資産運用の責任者です。
襟川が「マイコンショップを開きたい」と言い出したときも、私は自分の持っている土地を担保に入れたり、当時まだ470円だった任天堂さんの株を売却したりして、開業資金を工面できたんです。確かあの任天堂さんの株が、3,000~4,000株くらいあったかと記憶しています。
佐藤氏:
今でも持っていたら、とんでもないことになっていましたね(笑)。しかし、こう聞くとコーエーさんには、歴史シミュレーションゲームで羽ばたく前に、実にいろんな事業の可能性があったように思いますね。ただ、襟川さんにしても、マシン語まで覚えてしまったとなると、もうゲームを作るしかなかったでしょう(笑)?
陽一氏:
業務用ソフトを作るのも面白かったんですよ。でも、それよりも仕事が終わったあとに、自分でゲームを作って遊ぶ方が楽しかったんですね(笑)。
その中でも、我ながら最も傑作だったのが『川中島の合戦』というゲームでした。後にコーエーの一番最初のゲームになった作品です。
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初期のパッケージは恵子氏が描いていた
――これもファンの間では有名な話ですが、『川中島の合戦』はパソコン雑誌の通信販売で売り始めたんですよね。
陽一氏:
確か、ゲームソフトの開発を始めたのが80年で、最初に広告を出したのが『川中島の合戦』を出した81年だったよね。
恵子氏:
ただ、広告の掲載料が高くて、まともには払えませんでした。雑誌の広告って、ときどき空いてしまうことがあって、そういうときに格安で掲載してもらおうと、色んな雑誌に版下だけ送っておいて、「いくら以下の価格になったら、この広告を掲載してくださいね」とお願いしておいたんです。
――……そんなこと、普通やるんですか?
恵子氏:
やらないですよね(笑)。 でも、私は普段から色々な出版社に電話をして、「いま空き広告ないですか? おかしいですねえ」なんて言いながら空き広告を見つけては、格安料金で出稿していました。
佐藤氏:
しかも、まだカセットテープの時代でしょう。確か、手作業でダビングしていたんですよね。
陽一氏:
ええ、大変に原始的な方法を使っていて、NECのデータレコーダーというテープレコーダーを20台くらい並べて、それにカセットを入れたらカチャカチャとボタン押して、同時に録音するんです。その作業をパートの人たちにお願いして、製品を作っていきました。
――もはや「家内制手工業」ですね(笑)。この作品のグラフィックも、やはり陽一さんがお作りになられたのですか?
陽一氏:
ああ、これは会長の襟川ですね。
――え、会長がお作りになられたのですか?
恵子氏:
美大を出ていたので、絵は描けましたから。ただ、プログラミングが出来なかったものですから、もう大変で大変で……!
『信長の野望』のときなんて、メイン画面に兜を作りたかったのですが、飾りの三日月を作るのにも苦労しました。
佐藤氏:
もしかしてコーエーのデザインって、ずっと奥様が担当されていたのですか?
恵子氏:
ええ、印刷物等は私が作っていました。当時は、宣伝広告もコピーライトも、全て私がやっていました。そうそう、この『川中島の合戦』のパッケージも広告代理店の人に英字新聞を買ってきてもらって、その場で作りました。ちょうどフォークランド紛争中で、そんな記事を参考にしながら作ったんです。
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――……このパッケージが、『川中島の合戦』というタイトルなのに妙に絵が西洋風なのは、それが理由なんですね。
恵子氏:
その場で買った新聞がたまたまフォークランドの紛争の掲載をしていたのですが、シュミレーションウォーゲームでしたので、「ちょうどいい」と。もう実にいい加減でしたね(笑)! この光栄マイコンシステムのレタリングも、その場で描いたものです。赤バコシリーズと言われてよく売れました。
佐藤氏:
いやあ、いいコンビだったんですね(笑)。
恵子氏:
ただ、今でも覚えているのですが、うちの「マイコンショップ」に出入りしている学生のアルバイトに、「あのゲーム、面白くないと言われていますよ」なんて言われたんです。「ああ、そんなのを宣伝しちゃったのかしら」なんて、落ち込んだ覚えがあります。でも、実際には大ヒットです。カセットテープでしたから皆が簡単に複製できるので、日吉のコピー屋さんはマニュアルのコピーで忙しいと言っていました。複製さえできなければ、当社も売上利益がもっと増えていたのでしょうけどね(笑)。
ファミコン参入時の”大作戦”
佐藤氏:
その後、コーエーさんはどんどん人気を獲得されて、ファミコンに参入されました。ただ、当時のファミコンはナムコのようなアーケード系の企業が先に来て、PC系の企業は遅かったですよね。やはり参入には時間がかかりましたか。
陽一氏:
ええ、やはり全く仕組みが解析できなかったので、そこに手間取りました。
パソコンでゲームを作るのであれば、富士通さんやNECさんは技術者同士で交流があったので、資料も全て揃っていたんです。当時はPC-8801みたいな機種などは解説本もたくさん本屋にあって、しまいには中のOSを全て明らかにした本が裁判になっていたくらいです(笑)。
それに対して、ファミコンは一から内部を解析する必要がありました。結局、5年くらいの時間がかかってしまい、『信長の野望』のファミコン版は88年になってしまいました。
――コーエーのゲームというと、あの大きなカートリッジが印象的です。
陽一氏:
シミュレーションゲームの容量は、コンピューター側の武将のデータやアルゴリズムが大部分を占めていて、これがファミコンのメモリサイズではオーバーしてしまったんです。そこで任天堂さんと一緒に、メモリを切り替えて使う「バンク切り替え」という手法を共同開発して、通常の2倍の大きさのカセットを特注で作っていただきました。あれはもう何度も失敗しながら、苦労に苦労を重ねて作ったものなんですよ。
恵子氏:
しかも、あの規格外の大きさのカセットは店頭で目立ってしまって、手に取る人も多かったんですね。すると他のメーカーも、その必要もないのに「あの大きな箱を使わせてくれ」と言ってきたそうです。
私たちにとってありがたかったのは、当時の山内社長が「あれはコーエーさんが必要だから作っているだけだ」と他社には許可しなかったことです。本当に任天堂さんにはお世話になりました。マニュアルも厚くて立派なものを作ってくださいましたし、山内社長にはビジネス面でも色々と教えていただきました。
佐藤氏:
コーエーさんは、既にPCで大人気でしたから、任天堂さんも進出することに不安はなかったんだと思いますよ。
陽一氏:
私の方もなかったです。とはいえ、やはり大ヒットすると大変に嬉しかった記憶があります。
恵子氏:
社員の方々も信長ファンが多くて、「やっと光栄がきた」と大変に喜んでくださったそうです。ただ、あのROMの先払いの仕組み(※)だけは、本当に大変でしたよね。億単位の現金が必要で、やはり当社のような小さな会社が簡単に参入できる市場ではなかったんです。
※ROMの先払いの仕組み
ソフトを格納するROMカートリッジを、任天堂に生産委託する仕組み。最低発注数と1本あたりの前払い金があり、ファミコンに参入するためには最低でも数千万円単位で納める必要があった。
――初耳の読者も多いかもしれないですが、あの制度はゲーム好きよりも、MBAなんかでビジネスモデルを学んでいるサラリーマンなんかにこそ知られているかもしれませんね。一般には参入障壁を上げて粗悪なソフトが出まわるのを避けるための戦略だったと言われていますよね。
陽一氏:
ただ、やはりあの金額をすぐに用意するのは、パソコンソフトのメーカーには至難でした。最初のファミコンの『信長の野望』は最終的に50万本も売れたソフトでしたが、あの作品もお金がなくて大変に苦労したものです。
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恵子氏:
通常のソフトメーカーは、九州から北海道までの卸売様を30社ほど回って、注文をとるものだったそうですが、私たちはゲームではないPCソフトも販売していましたし、そもそも当社にはその営業がいないのです。
そこで、私は「それなら流通の会社に来ていただこう」と、習字の達人に和紙で招待状を書いてもらい、帝国ホテルで「『信長の野望』のファミコン参入の発表会を開く」と日本中の卸売様にご案内して、昼食会を開いたんです。
――え、ソフトハウスが流通業者を呼びつけたんですか?
恵子氏:
ええ、なにせ営業は一人しかいませんし、パソコンのビジネスや日々の業務もあるので、九州から北海道まで回っていくなんて現実的じゃありませんから。大手の問屋様に総代理店になっていただくのも好まなかったですし。
ところが、そうしたらなんとご招待した全員がホテルに来てくださいました。というのも、卸しの掛け率の相場を学生時代からのビジネスの経験で知っていたので、私は他社より高くしておいたんです。
佐藤氏:
しかも、コーエーさんのゲームは定価が高いから。
恵子氏:
そうです。そうして呼びつけた上で、昼食会の席上で私は「コーエーのゲームは、現金で全て先払いでお願いします」と言ったんですね。
佐藤氏:
えええ(笑)。
恵子氏:
そうしたら、もうその場にいた人たちの怒ったこと、怒ったこと。「コーエーはうちより信用調査が悪い。うちを銀行と思っているのか」と叱られたり。
――あの……流通業者が現金先払いでソフトを購入するのなんて、あまり耳にしたことのない話なのですが。
恵子氏:
非常識もいいところですわよ(笑)。
でも、お金がなければゲームを売りだせないんだから、仕方ないです。「”先に金を全額くれ”なんて話は聞いたことがない。しかも、先払いでコーエーが潰れたらどうしてくれるんだ!」なんて怒られました。
――そうですよね……。
佐藤氏:
それで、どうされたんですか?
恵子氏:
「ええ、おっしゃるとおりです。私たちには資金がないので、潰れるかもしれません。ですから、コーエーは潰れないと思われて、それでも『信長の野望』を仕入れたいと思って下さる方がいらしたら、ぜひ前金でお願いします」と答えました。そうしたら、今度は「金儲けしたいんだろ!」なんて凄まじい剣幕で怒られまして(笑)。
佐藤氏:
(笑)
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恵子氏:
そこで、私は「コーエーに将来性があるとお考えの方2、3社の方とだけでもお付き合いいただければ、それで幸いです」とひたすらお願いしました。
そのあと、任天堂さんには流通業者の方々から、「訳の分からない女が、頭のおかしいことを言っている」とか「非常識極まりない」とかの、たくさんクレームの電話が来たそうです。なにしろ前代未聞のことで、きっと九州から北海道まで私への悪口が飛び交っていたのでしょうね。
さすがの私もしばらくは落ち込んでしまったのですが、襟川と来たら「まあ、企業の中には人それぞれ役割があるからね」なんて言って、自分は涼しい顔をしながらゲームを作っていたんですよ!
――なるほど(笑)。
恵子氏:
そうしてしばらくしたら、もう銀行に大金がバンバン振り込まれてきました。(笑)。メインバンクだった支店長がびっくりして、すっ飛んできました。銀行にそういう入金があるなんて知らせていなかったので、「こんなことは初めてだ」と驚いていました。まあ、そのお金はすぐに任天堂さんにお支払いしてしまったのですが。
――ファミコンにおけるROMの先払い制度は、今となっては有名な史実ですが、そのときにメーカーが問屋さんに先払いさせた事例があったなんて初めて聞きました……。
恵子氏:
最初は全額前払い。次回からは半金前払いでした。金利も当時は高かったので、すばらしい仕組みですね。私は義父の会社で手形の不渡りは懲りていますから、いつもニコニコ現金決済です。
一同:
(笑)
佐藤氏:
いやあ、今だから言える話というか、まさに「我が道をゆく」ですよね(笑)。
恵子氏:
その頃から、いつもコーエーでは悪いことはすべて私の仕事なんです、ふふふ(笑)。でも、なんとか、醜態をさらしながらここまでやってきました。
ただ、あのころは若かったので、“恐れも知らず”でした。
『信長の野望』の生産が決定すると任天堂さんの役員の方が会社のどこを歩いても、『信長の野望』の「ダンダダダン」というテーマミュージックの音ばかりしていますよと仰っていたのですが、あるとき、天下の山内社長とコンセプトのぶつかり合いで大もめにもめてしまったんです。任天堂の役員の方が、「うちの社長があれほどお願いしているのに襟川様が言う事を聞かない」と涙を流されて……。でも、そのあとでゲームメーカー向けに開いた説明会で、大勢の皆様の前で山内社長に「あんたが正しかった。わしが間違えやった」と仰っていただきました。
その後、ある方の結婚式で襟川の隣に座られた社長が「あんたー、なんであないな嫁ハンもろたん。はよう別れなはれ」とニコニコしながら仰ったそうで、私はそれを聞いて大笑いしてしまいました(笑)。
※山内 溥
任天堂・元代表取締役社長。ファミコンなどの成功で、玩具メーカーの任天堂を世界的なゲームメーカーに育てた。この時期は、まだ社長を務めていた。
信長から乙女ゲームまで… シブサワ・コウとその妻が語るコーエー立志伝 「世界初ばかりだとユーザーに怒られた(笑)」_015
コーエーの価格はなぜ高かったのか?
――ところで……あのコーエーの1万円を超えるような価格設定も奥様だったと聞いたのですが。
恵子氏:
確かに、以前は価格が高いと言われましたが、ワードプロセッサのソフトが10万円していた時代だったんです。しかも、ゲームソフトはストーリーにサウンド、グラフィックスがあって、インタラクトデザインにプログラミングもある。当社はワープロソフトも作っていましたが、当社のゲームソフトは理系と文系の融合で、それよりもずっと大変だと思っていましたから。
ただ、『三國志』のときに1万4800円にしたときには、さすがに「1万円を超えるなんてだれも買わない……」と、社員・流通・ショップの全員に反対されましたけどね(笑)。
陽一氏:
さすがに私も反対しました(笑)。
娯楽のソフトがその価格はどうなんだろう、と思ってしまったんですよ。
恵子氏:
もう当時は襟川との離婚も辞さない覚悟で、14,800円でいくと一人で全員と戦っていました。大の男が女の細腕をだれ一人も応援してくれないんです。でも、私は「必ずこの価格でも大ヒットするはずだ」と思っていました。
――旦那のゲームを売るためには「離婚も辞さない」(笑)。
恵子氏:
『三國志』は10万円のワープロソフトよりも価値があるもので、誰も創れないものだと確信していましたから。そして、実際に皆さんにたくさんお買い上げいただき、流通・ショップ様にも大変喜んでいただきました。
――会長のそのバイタリティは凄いと思うのですが、一体どこからそんなパワーが湧いてくるのでしょうか。
恵子氏:
私は学生時代からビジネスをやっていましたから、流通の仕組みや卸価格はよく分かっていました。
例えば、当時のゲームメーカーは定価の20%以下でソフトを卸していたりしたんです。学生が1~2週間も開発すれば作れるゲームもあって、しかもそれが売れてしまう時代でしたから、当時はそれでもやっていけたのかも知れません。
でも、本当に宣伝・広告、あるいは設備投資に人件費や経費等を考慮したら、やはりそれではビジネスとして長続きはしません。ですから流通の方ともよくぶつかりましたが、私はよくご説明し、決して相手を裏切らずというやり方で、信頼関係を構築してきました。そういう流通・ショップの方々やユーザーの皆様が最終的に喜んで下さることが、私のバイタリティになっているのだと思います。
でも、ある流通の方に「ヤクザなら警察があるけど、貴女は手に負えない」なんて言われたこともありましたけども……(笑)。
佐藤氏:
はっはっは。でも当時は、コーエーさん自身もパソコン用の投資ゲームを作っていましたよね。
恵子氏:
あれは、私が株式投資を18歳からやっていたので、襟川に頼んで作ってもらったものです。今でもコーエーで、私は投資の仕事をしています。投資ゲームにはニュースとして国際情勢や為替相場も入れたんです。楽しくて実践的でもあったから、売れましたよね。 そうそう、あれは確か最初の定価が3800円だったのを、途中で5800円に変えたんです。
――えええ。いいんですか(笑)。
恵子氏:
そのときも、襟川には「そんな非常識な話があるか」と大反対されました。 でも、当時は3,800円ですぐバグで止まるゲームもあって、投資ゲームは実用的で面白いし勉強になるのだからと、価格を5,800円に変えました。 襟川は最後まで怒っていましたけどね。
でも、そうしたらどうなったと思います? なんと、すぐ注文が舞い込んできて、以前よりずっと売れたんです。
――なぜでしょうか……。
恵子氏:
理由は、「その日から流通さんは在庫を2000円高くして売ればいいから」です。その分だけ利益ですし、お店も店頭在庫の値段を2000円高くした分がすべて利益になるんです。この5,800円は利幅も大きいので、ショップは「お客様に良いゲームだ」と、どんどん奨めて売ってくださいました。ゲームの評判が良くて皆さんに喜んでいただけるのは読めてましたが、さすがにそこまでの副次的な効果は読めませんでした(笑)。
一同:
(笑)
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信長から乙女ゲームまで… シブサワ・コウとその妻が語るコーエー立志伝 「世界初ばかりだとユーザーに怒られた(笑)」_017
『信長の野望』発売後はゲームプレイの内容を記録した「リプレイ本」も人気となった。
シブサワ・コウのゲーム制作術
――大変に貴重な創業時のお話を聞かせて頂いているのですが、そろそろコーエーという会社のゲーム史的な位置づけについてもお伺いしてみたいんです。実は、コーエーさんの作るゲームって、世界で初めて手がけたシステムの作品がたくさんありますよね。
恵子氏:
はい。 私自身がいつも広告を書くときに「世界初!」と書いていましたから(笑)。あるとき、ユーザーさんから「コーエーはいい加減、毎度毎度”世界初”のコピーはやめたら」なんて言われてしまいました。
でも、マネジメントのゲームも女性向けゲームも、実際に当時は類例がなかったんだから仕方ないですわよね。
――というよりも、そもそもコンピュータを使った戦略シミュレーションゲームで、これほど経営要素をしっかり入れたゲーム自体が、コーエーが先駆けなんじゃないでしょうか。シド・マイヤーの『シヴィライゼーション』(※)にしても、1983年発売の『信長の野望』よりずっとあとに作られた作品ですし。
※『シヴィライゼーション』
1982年にアバロンヒルよりボードゲームとして発売され、シド・マイヤーによって1991年にパソコンソフト版が発売されたターン制ストラテジーゲーム。文明の発展をテーマにしており、国土の整備や科学技術の開発、商業、内政、他国との外交など様々な戦略を楽しむことができる。
佐藤氏:
……そうなんだ!
恵子氏:
あるゲームメーカーの創業者の方に「オリジナルなんてありっこないよ。どうせ、どっかのみんな真似なんだから」と言われて悔しかったです。
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――でも、じゃあ『信長の野望』なんてゲームがなぜ突如登場してきたのかが不思議なんです。もちろん、マニアックなボードゲームの世界に戦略シミュレーションは既にありましたが、コーエーさんのゲームは、もっと幅広くゲームを楽しむ層を惹きつけるものですよね。
陽一氏:
最初の『川中島の合戦』は、本当に川中島で武田信玄と上杉謙信が、それぞれ部隊を率いて戦う作品でしたが、あれはイメージとしては「軍人将棋」(※)に近いものです。
そもそも子供の頃から、私は軍人将棋や囲碁やゲームが大変に好きだったんです。『信長の野望』でヘックスのマス目を採用できたのも、その経験から「ヘックスは隣り合うマスの接触数が最も大きいので、面白くなるだろう」という感覚を持っていたからですね。
※軍人将棋
軍隊の階級や兵種を元にした駒を用いる。駒を盤上の陣地に並べ、相手と交互に動かしていくが、互いの駒が分からないよう裏返しにして配置するのが特徴。相手の総司令部を占領するか、相手の動ける駒を全滅させれば勝利。
恵子氏:
学生時代からこたつの天板をひっくり返して、マス目にサイコロの出目計算をしてゲームを作り、よく友人と遊んでいました。
佐藤氏:
元々、アナログゲームがお好きなんですね。
陽一氏:
あまり『ダンジョンズ&ドラゴンズ』(※)みたいなゲームは自分ではやらなかったですが、そういうのが好きな友人もいましたしね。
ただ、小学生くらいの頃には、武将のカードゲームを作って遊んでいた記憶があります。織田信長や徳川家康のカード作って、ちゃんとルールを決めておくんです。もちろん、一番強いのは信長ですが、本当に一番強いのは忍者、でも忍者は足軽にだけはすぐにやられてしまう、なんてルールもつけていたかな。まあ、そういうことは小学生時代からやっていたんです(笑)。
恵子氏:
『ダンジョンズ&ドラゴンズ』の作者は襟川の米国で教授をしていた親友の教え子で、ゲームソフトを作らないかと言われたこともありました。
※『ダンジョンズ&ドラゴンズ』
世界で最初のTRPGであり、後世のRPGに大きな影響を与えた。オリジナルの開発者は、ゲイリー・ガイギャックスとデイヴ・アーンソンで、Tactical Studies Rules社が1974年に制作・販売した。
佐藤氏:
さすがですね(笑)。
陽一氏:
ただ、そういう子供時代からの素質もあったとは思いますが、やはり大人になってからゲームを作ったときに、だんだん武将という”人間”そのものや、戦国時代という”時代”そのものを描きたくなってしまったんですよ。一体、彼らは何を考え、何をしたいと思い、どう生きていたのか。それをゲームを通じて描けたら、きっと面白くなるはずだと思ってしまったんですね。
――歴史上の「人物」にフォーカスを当てた楽しみ方を追求したくなった。
陽一氏:
ええ。そのときに考えたのが、武将というのは社会システムの中の一要素にすぎない、ということなんです。
「戦」というのは本来、経済や軍事、産業や農業のような様々な社会システムが絡み合った戦略における一つの選択肢でしかないんです。だから、武将という人々もそういう社会システムを動かしていく一人でしかないんです。そういう部分まで描き出せれば、きっと自分が戦国時代にタイムスリップした気持ちを味わえるはずだと思いました。
まあ、そういうことを考えたのは、やはり自分が当時、社長という立場で会社をどうマネジメントしていくかに悩んでいたのも大きいでしょうね。
――経営者の視点で戦国時代を見なおしてみたら、「戦」というのは国における”経営”の一要素でしかないと考えるに至ったわけですね。実は先日、昔の『コンプティーク』(※)でシミュレーションゲームの分類をしているページを見つけたのですが、そこで『信長の野望』が「経営ゲーム」に分類されていたんです。
※『コンプティーク』
KADOKAWA発行のパソコンやゲームなどを取り扱うメディアミックス雑誌。本記事で聞き手を務めているカドカワ会長の佐藤辰男氏が1983年11月に創刊した。
陽一氏:
ええ、そうなるでしょう。『信長の野望』は、実は国を経営する「マネジメントゲーム」なんですよ。だって、「民忠」が上がらないと「生産性」も「石高」も上がらないので、戦にも勝てないようになっているんですよ。実は、国の経営管理の手腕が大きなウェイトを占めているわけです。
信長から乙女ゲームまで… シブサワ・コウとその妻が語るコーエー立志伝 「世界初ばかりだとユーザーに怒られた(笑)」_019
――ちなみに、あの武将のイメージたちの影響はどこから来ているのでしょうか?
陽一氏:
やはり日本の作家が書く時代小説ですね。とにかく小さい頃から時代小説が大好きで、読めるものはひと通り読んでいました。山岡荘八さんの30数巻ある『徳川家康』も読破しました。司馬遼太郎さんの『国盗り物語』も、本当に好きな本でしたね。
これには、私の生まれ育ったのが栃木県の足利市という足利氏の育った地域だったために、歴史的な遺跡が多かったという影響がある気はします。
佐藤氏:
時代小説はどういう部分に魅力を感じられたのですか?
陽一氏:
その時代にタイムスリップして、紙の上で当時のことを疑似体験できることです。
その世界の人になりきった気持ちになれるのが嬉しいんですよ。逆に、そうなれないものはあまり読む気がしないんです。
例えば、最近では『村上海賊の娘』(※)は、素晴らしかったですね。もう本当にタイムスリップして、あの娘と一緒にいるような感じになれるでしょう。ああいう世界というものから、私はもう一生離れられないと思うし、ゲームでもそこを目指しているからこそ、ただ戦だけを描くものにはならないんだと思います。
※『村上海賊の娘』
『のぼうの城』の作者・和田竜による長編歴史小説。第35回吉川英治文学新人賞と第11回本屋大賞を受賞している。
――『ペルソナ4』の世界に浸りたくて、クリアしてもずっと遊び続けたという話に通じますね。実際、コーエーさんのシミュレーションゲームって、コアの面白さは所謂「シミュレーションゲーム好き」の層が求めるものとは少し違うんじゃないでしょうか。実はもう単純に、歴史上の武将になりきった気分で冒険できることこそが楽しいんだと思います。
陽一氏:
いやあ、その評価は本当に嬉しいですよ。 そう言ってくださるのが、私の何よりの喜びですね。ありがとうございます。
恵子氏:
それこそ、戦国時代を疑似体験して、「もし自分が大将なら、こう世の中を変える」と脳を使うのですから、複合的な判断力がつきますよね。
――しかも、実はこの「なりきり」の没入感というのは、ボードゲームのシミュレーションゲームに対する、コンピュータゲームならではの優位だとも思います。
陽一氏:
ええ、やはりコンピューターは、アクションに対してリアクションをどんどん積み重ねられるじゃないですか。それがゲーム内にライブ感覚を生み出して、ついには「自分がそこに生きている」という感覚を生み出すんです。これは、私の考えるコンピュータゲームの魅力でもありますね。
――もう一つ問いを続けていいでしょうか。最初は『三國志』だったと思いますが、なぜ武将をパラメーターで表現されたのでしょうか。見過ごされがちですが、これは実はゲーム史におけるちょっとした発明だと思います。しかも、この発明こそが、海外のマクロ視点のシミュレーションゲームとは違う、あの武将に感情移入しながら楽しめるコーエーらしいシミュレーションゲームが成立した条件だったように思います。
陽一氏:
ああ、それはRPGの影響です。
そもそも私たちは、『信長の野望』を作る前に『ドラゴン&プリンセス』(1982・光栄マイコンシステム)というRPGを発表しているんです。これは日本で最初にRPGと銘打って出したゲームです。まあ、RPGのシステムだけなら、本当はその少し前に『地底探検』(1982・光栄マイコンシステム)というゲームで採用していたんですけどね。
このゲームを作ったとき、開発のアルバイトの子がボードゲーム好きで、彼が昼休みに遊んでいるのを見たら、なにやら「カリスマ」と書かれていたんです。「これは何なの?」と聞いたら、「これはもう”人智を超えた魅力”を表す数値ですよ」なんて返されて(笑)。
――(笑)
陽一氏:
そんな「魅力」なんてものを数字で表現できるのかと驚いてしまいましてね。それが武将に「魅力」というパラメーターを入れたキッカケです。
――いまお話を聞きながら、以前にカドカワの川上会長が「『信長の野望』は自分の考えではRPGなんだ」と言っていたのを思い出しました。確かに、『信長の野望』なんかの、自分がその物語の主人公になって、次々に敵をなぎ払いながら仲間を増やしつつ世界を拡大していくという感覚は、むしろRPGに近いですね。
佐藤氏:
まあでも、良いコンテンツというのは、映画であれ小説であれ、なりきって没入させる要素はあると思いますよ。そこはジャンルを超えちゃうんじゃないですか。
陽一氏:
そうですね。まさに、佐藤さんのおっしゃるとおりです。 ただ、私のエンタメへの考え方に、どうもそうでなければいけないというような強いこだわりがある気もしますね。 私の考える面白いゲームというのは――本当に自分がそこにいて活躍しているように思えて、自分のやりたいことを明確に意思を持って実行できる――というものなんです。しかも、それに対してモンスターや競合の武将が反応してくる中でせめぎ合っていくと、自分の手でドラマを生み出していけるんですね。そういうゲームに自分自身も魅せられながら、ずっと作ってきたように思います。
だから、川上さんの仰る「RPGみたい」というのも、国自体がキャラクターのように成長していく物語ですから、確かにそういう側面は大いにありますよ。いま言われて、初めて気づきましたが(笑)。
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世界初の女性向けゲーム『アンジェリーク』誕生秘話
佐藤氏:
あと、コーエーの”世界初”といえば、やはり女性向けの「恋愛シミュレーション」は外せないですよね。
恵子氏:
『アンジェリーク』(※)ですね。女性向けのゲーム自体はもう、コーエーがゲームを作りはじめた当初から、ずっと作りたかったのです。
(C)コーエーテクモゲームス All rights reserved.
(C)コーエーテクモゲームス All rights reserved.
※『アンジェリーク』
1994年にスーパーファミコンで発売された、世界初の女性向け恋愛シミュレーションゲーム。
――ええ! 奥様の発案だったのですか。どうしてまた?
恵子氏:
だって、コンピュータゲームは男性市場でしょ。戦って勝利する。あるいはバンバン撃ち殺す。
――コーエーテクモの会長が言うと、とてつもない説得力がありますが(笑)。
恵子氏:
しかも、ゲーム雑誌を見ると、戦争やアクション・シューティングばかりです。女性からしたら、もう入る余地はありません。ですから女性が楽しめるゲームが絶対にこの世にあるべきだと思ったんです。
――でも、例えばお二人が経営されていたマイコンショップに女性客なんて来ていたんですか……?
恵子氏:
来ませんよ! 男性ばっかりでした。
――その状況で、女性にゲームが広められると思ったのは、実は凄くないですか。
佐藤氏:
確かに! そうだよねえ。
信長から乙女ゲームまで… シブサワ・コウとその妻が語るコーエー立志伝 「世界初ばかりだとユーザーに怒られた(笑)」_021
――でも、海外でも今に至るまで乙女ゲームのような女性向けゲームが確立しているとは言えませんよね。一体、なにを根拠にして会長が可能だと思われたのかが気になるのですが。
恵子氏:
だって、人類の半分は女性でしょう?
ゲームが男性だけのものであるはずがない、きっと女の子がドキドキできるゲームを作れば喜んでいただけるとずっと思っていました。女性がパソコンに興味を持つ時代が来ることも、私は信じていましたね。
――つまり、何か具体的なデータがあったわけではなくて、会長のなかにあった”信念”というか、「ゲームが男性だけのものであるはずがない」という強い確信が、世界でも例を見ない女性向けゲームを生み出した?
恵子氏:
そう言われるとなんだか凄そうですけれども(笑)、仮説を実行しただけです。
女性の好みをふまえたガーリーなゲームを作れば、女性たちもゲームを絶対に楽しんでくれるはずだと思ったんです。
やはり、男性と女性の好みは違います。男性は能動的、女性は受動的というところがあって、 女の子には「垂れ流しの文化」のほうが受け入れられやすいというのはあるんです。実際、女性には映画や小説が好きな人は多いけど、男性のように操作したり、自発的に行動を起こすような楽しみ方はどちらかと言えば苦手な人が多いと思います。子供でも、男の子はもう目覚まし時計なんかをバラバラに分解したり、物を投げたり、走りまわったりしていますが、女の子はおままごとやお人形さんごっこを楽しんでいることが多いでしょう。
ただ、当時は社員が男性しかいなかったので、それでは女心はわからない。ですから、私は女性を採用しました。でも、当時の女性社員はすぐに結婚して、退職してしまったので……結局、『アンジェリーク』を発売するまでに10年かかりましたね。
――10年がかりだったんですか……。
恵子氏:
90年代になって、やっと女性たちのチームが作れたので、「ルビー・パーティ」と名づけて開発をはじめました。
私は、まず徹底的に女性に寄せたゲームを作ることにしたんです。守護聖様は、ギリシャ神話を題材にして、女性向けにとにかくピンクを多用して、主人公もガーリーな子にしたりしてできたのが『アンジェリーク』です。
――もしかして、奥様自身が立ち上げたゲームは、『アンジェリーク』が初めてですか?
恵子氏:
はい。ただ、『アンジェリーク』の世界観は、途中から変わっていったんです。初めての女性たちのゲーム制作は未熟でした。競い合うシステムが作れず、最終的にはシブサワ・コウに入ってもらい、女王候補が二人で惑星を育成し、守護聖様に助けられながら競い合うというゲーム部分を作ってもらいました。
陽一氏:
まあ、私には女性の方が喜ぶような甘ったるい言葉は作れませんが、ゲームであれば作れますからね(笑)。
要は、自分がファンタジー世界に生きていると思えればいいと思ったんです。だったら、それは男性向けに作ってきた、戦国時代の武将を描くシミュレーションゲームと同じです。その世界を構成する要素を作り上げて、そこに上手い連関性を作っていけば、男女にかかわりなくどんどんその世界に生きているような気分になれる。そこには自信がありました。ただ、なかなかこの連関性が上手く作れなかったので、ストーリー部分から手伝いに入ることになったんです。
――まさに、『信長の野望』や『三國志』で培ってきた、その世界に入り込んだ気持ちになれる「なりきり」を生み出すテクニックを持ち込んだんですね。『アンジェリーク』は、今では乙女ゲームの走りとして伝説のゲームになっていますが、発売当初はどうでしたか?
恵子氏:
最初の出足は市場がないので、当然ながら売れ行き不振です。ゲーム雑誌も読者は男性なのであまり取り上げられず、むしろ一般誌のほうから話題になっていきました。
佐藤氏:
なにせ最初ですから……相当に苦労されたでしょう。
恵子氏:
しかも、私は一気にメディアミックスを仕掛けましたからね。漫画にしたり、ドラマCDを作ったりして。ただ、それは大変だったと言うよりは、夢中だったという方が正しいように思います。
――そういうメディアミックスも、『薄桜鬼』などの女性向けゲームの戦略の先取りですね。
恵子氏:
しかも、声優さんのボーカルCDを発売したんです。すると、もう6人いるキャラクター声優さんのCDが、15,000枚~20,000枚という数字で売れていくんです。まだ当時は今ほど声優さんが歌うような時代じゃなかったから、音程が外れたり、リズムに乗れなかったりしていたんですよ。それでも、みんなキャラクターに思い入れがあるので、どんどん買ってくださいました。当時は新曲で2万枚売れたらレコード業界では社長賞でしたから、これはすごい数字でした。本当に良い時代でしたね(笑)。article-thumbnail-koei
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東大やハーバードが注目した『信長の野望』
――そろそろ時間なのですが、本当に今日は、コーエーの絶え間ない挑戦の歴史を聞かせていただいたように思います。
恵子氏:
まあ、元々はゲームの会社ではありませんでしたからね。そういう意味では、この「光栄」という名前も大変に良かったと思いますね。
起業したときに、国会議員の先生も通うような著名な易学の先生のところに襟川を連れて行って下さった方がいました。すると先生が、「これからの時代はもう”襟川産業”みたいに、工業や産業という名前をつけてはいけない」と言われたそうです。「今後はどんな仕事で成功するかわからない時代になる。何のビジネスでも通用する社名にしなさい」と。そして「光栄」という字は、襟川に合っていて“孤高に栄える”と言われたそうです。
――なるほど。
恵子氏:
でも、私はピンと来なくて(笑)。
襟川のほうも私が大学時代にネーミングについて学んだと言ったのを聞いて、社名を考えてほしいと言いました。 でも、起業のときにはもう業務が忙しくて、しかも二人の子供を育てながら自分のデザインの仕事も抱えて、さらに当時住んでいた祖母の古い別荘は自分で修理しないとすきま風や破れた襖に悩まされますし……正直、家業の卸し業のネーミングを考えるどころではなかったのです。
そうこうするうちに気がついたら登記の日がきて、そこで「もう、光栄でいいんじゃない?」と言ったのです。
いま思えば、ゲームソフトの会社になるなんて当時は思いつきもしませんでした。結果的には、その先生の判断は大変に素晴らしかったです。おかげさまで、海外でもコーエーという名前が使えていますから。
佐藤氏:
なんだか、良い話ですね。
――それにしても、コーエーさんのゲームはジャンルが幅広いし、しかもそれを模倣ではなくて、常に自分たちの頭で考えてきたのが凄いと思います。
恵子氏:
そういう意味では、一世を風靡した『トップマネジメント』(※)がありましたね。 会社経営の勉強になるシミュレーションゲームなのですが、政治家の世耕弘成先生がお好きだったそうです。NTTに勤めていらしたときに、トップマネジメントのおかげで会社の研修で一番になったという話を仰っていただきました。
襟川が『トップマネジメント』を制作したのも、絶対に会社を倒産させまいと勉強した成果だと思います。 まあ、こんなこと言うと、義父には「倒産なんかしていない、会社整理だ」と叱られてしまいますけどね(笑)。
※『トップマネジメント』
1984年に発売されたパソコン用経営シミュレーションゲーム。NECやIBMなどの当時のパソコンメーカーを模した会社を選んで、年末商戦などを戦っていく。
陽一氏:
シミュレーションゲームは、疑似体験により戦略や戦術を競うタイプのゲームである以上、別に歴史に限らなくても、色々なジャンルで楽しめるはずだと思うんです。そこで、特に90年代以降は歴史だけじゃなくて、経営でも恋愛でも競馬でも、色々なジャンルにこのゲームを広げられるはずだと考えて展開していきました。
すると、大学の経営学部で「マネジメントゲーム」というものが使われているという話を耳にしたんです。自分が起こした経営行動でBSやPLがどう動くかを、ゲームを通じて頭の中に叩き込むための学習ゲームがあるというんですね。しかも、そういう大学の先生方にお会いしてみると、驚いたことに私と同じことをしていたんですよ。
佐藤氏:
学問のトレンドにぴったり合っていたんですね。
陽一氏:
私からすれば、先にも言ったように『信長の野望』がそもそも国を経営するマネジメントゲームなんですよ。ですから、『トップマネジメント』を作ったときも、パソコンの製造会社を自分が経営して、競合のNECや東芝やIBMと戦うというイメージで作ったわけです。
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恵子氏:
当時の役所が実務的に役立つマネジメントゲームを共同制作するようにと、大手家電メーカー数社に30億円ほどの予算を割り当てたことがあるんです。そうしたら、ある家電メーカーの社員の方が「コーエーの『トップマネジメント』というゲームが面白くて、非常に優れている」と言ってくださったらしいんです。
それで官僚の方から連絡をいただいて、襟川が役所に説明に行くことになりました。その場では、 官僚の方に「いくらで出来るんですか?」と聞かれて、襟川が「3,000万円ぐらいです」と答えたものだから、そのお役人さんはあ然としていたそうです。
一同:
(笑)
恵子氏:
結局、そのプロジェクトのままでマネジメントゲームを創ったそうですが、きっと美人の秘書も出てこないでしょうし(笑)、つまらなかったでしょうね。
佐藤氏:
もしかして、襟川さんがシミュレーション&ゲーミング学会(※)に名を連ねているのは、その流れですか?
※シミュレーション&ゲーミング学会
シミュレーションとゲーミング、それらに関連する分野の学際的な学会(公式HPより)。1989年に設立された際に、襟川陽一氏が発起人に名を連ねた。
陽一氏:
ええ。経営シミュレーションの研究者の方々と、東京大学の関先生という国際政治学の先生のつてで連なりました。関先生は国際政治のシミュレーションの専門家で、自分の研究分野と当社のゲームが非常に近いというものだから、一度東大で話してくれと言われたんです。
恵子氏:
最初はこの人が嫌がって、断ると言っていたんです。でも、私が「お役に立てるし」と強引に進めました。
陽一氏:
東京大学の大学院生たちを前に、どういうアルゴリズムでゲームを組み立てて、例えば『維新の嵐』というゲームの場合、どういうふうに維新の志士たちのパラメーターなどを決めているのかなどを話したんですよ。それをキッカケに関先生と仲良くなり、それから、欧米ではずっと以前から活動している国際シミュレーション&ゲーミング学会の日本支部を作りたいというお話があり、応援させていただきました。
恵子氏:
しかも当時、日本学術会議の会長で、文化勲章も受章された東京大学名誉教授の近藤次郎先生が『信長の野望』の大ファンで、お孫さんに唯一勝てるゲームとして、プレイしていらしたんです。
近藤先生はいかに『信長の野望』がマネジメントゲームとして優れているかを米国のニューハンプシャーでの学会で発表されました。すると、カナダの大学やハーバード大学の大学院でも『信長の野望』を学生にプレイさせるようになってしまい、ついにはテレビでも取り上げられました。
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「新しいことに挑戦してこそゲーム」(陽一氏)
――なるほど。そろそろ本当に終わりの時間なのですが、最後に一つだけお伺いしてもいいでしょうか。シブサワ・コウという名前を長い間、襟川さんが自分だと名乗らずにいた理由は何だったのですか?
陽一氏:
2000年までは、一切表に出てこない開発のプロデューサーだという位置づけにしていました。 私が自分の名前を名乗っていたら、私が死んだら終わりだけれども、シブサワ・コウと名乗っておけば別の人が継いでいけると考えていたんです。
ただ、2000年に開発の世界にもう一度どっぷり浸りたいと思ったときに、もう自分の名前も顔も出してしまって、責任を持って「これは私が作っています」と言った方が時代に合っている気がしたんです。
――ちなみに、名前の由来は?
陽一氏:
コウは光栄のコウです(笑)。 シブサワの方は、渋沢栄一(※)という幕末から明治時代にかけて活躍した経済人の方にちなんでつけました。その人の生き方が私は大変に好きだったので、その名前をいただいたんです。
※渋沢栄一
1840年に生まれて、江戸時代から大正時代までを生きた。サッポロビール、王子製紙、日本郵船、さらには東京証券取引所や理化学研究所などの様々な企業の設立に関わり、日本資本主義の父といわれる。
――そこも、ちょっと「なりきり」要素でしょうか(笑)。
陽一氏:
ははは、そうかもしれないですね。彼の考え方は、「ビジネスというものはただ利益を上げることじゃない。世のため人のためになることにある」ということで、彼の人生はまさにその実践でした。私は、その生き方にとても惚れてしまっていたんですね。ですから、当社の企業理念は、「創造と貢献」という言葉にしています。
――絶え間ない「創造」というのが、コーエーの特徴だと思いました。信長の野望シリーズも、毎回どんどんシステムを変えていますしね。
陽一氏:
ええ。新しい面白さでお客様に楽しんでいただくのが、このコーエーテクモの方針ですから、常に新しい切り口を入れていくんです。『信長の野望』で毎回大幅にシステムを変えたり、武将を増やしたりし続けるのは、まさにこの企業理念にあります。
ただ、そう思うのは、やはり最初の『川中島の合戦』の人気の理由がそもそも見たこともないゲームだったというサプライズにあったと、今でも思っているからかもしれないですね。『信長の野望』だって、単なる戦いではなくて、トータルに戦国時代をシミュレーションできるところに他のゲームとの違いがあり、楽しさがあると思っています。 私の中には、新しいことに挑戦してこそゲームだし、常にお客様に新しいサプライズを作っていかなければいけないという思いが強くあるんです。
恵子氏:
ええ、常に新しいことにチャレンジして、進化できればと思います。 (了)
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珍しいコーエー創業者・襟川夫妻同席のインタビューだったが、皆さんはどんな感想をお持ちになったろうか。
パソコンが普及して、世界中の若者がゲームを作り始めた1980年代。その中でもコーエーの作ったゲームたちは、実は群を抜いて独創的なものの一つであった。それがなぜ生まれたのかを明らかにするのが、今回のインタビューにおける編集部の裏テーマだった。
取材の中で見えたのは、襟川氏の優れたプログラミング能力もさることながら、様々なシミュレーションゲームを常に自分の頭で考えて、ゲームに落としこんできた果敢な姿勢であった。全くの別分野で発展してきたマネジメントゲームとも相通じるゲームデザインに彼がたどりついたのは、その姿勢にこそあったのではないだろうか。
特に襟川氏が面白いのは、「歴史上の偉人になりきりたい」などの”ミーハーな”夢を大事にして、それを実現するものとして、シミュレーションゲームを捉えたことである。実際、この取材で襟川氏がもっとも顔をほころばせたのは、実は「コーエーのゲームの面白さは、なりきりの部分にあるのではないか」と質問をぶつけたときのことだった。齢65歳となる現在でも『ペルソナ』を楽しむ氏の、”永遠の少年”の一面が見えた瞬間だった。
そして、もう一つこのインタビューで印象的なのが、シブサワ・コウの妻にしてコーエーテクモホールディングス会長の襟川恵子氏の、おそらく多くの人には意外だったであろうほどの奮闘ぶりである。彼女もまた夫同様に自らの強い信念にもとづいてコーエーのゲームを販促してきたわけだが、その痛快とも言える逸話の数々は、まるで歴史小説の登場人物のよう。 歴史上の人物で言えば、豊臣秀吉の妻である「ねね」、あるいは小説「功名が辻」に登場する山内一豊の妻「千代」など、夫を支えながら戦国時代を駆け抜けた女性たちがいたように、彼女もまた、ゲーム産業の歴史を彩る主役の一人であったと言えそうだ。
ともあれ、あまり語られることのなかった襟川夫妻のエピソードが盛りだくさんだった今回のインタビュー。コーエーの知られざる側面が垣間見える取材になったのではないかと思う。
(次回は『Dr.スランプ』や『ドラゴンボール』を担当した伝説の漫画編集者・鳥嶋和彦氏がゲーム業界に与えた影響を紐解きます)